〜連載第28回〜
自立を目指して生きてきたら、いつの間にか孤立していた。
依存症に苦しんでたら、共存という新たな道が見えてきた。
これは、そんな私の半生の話です。
「障害」の話が出たので、私のもうひとつの障害についても語っておこうと思う。
それはたぶん生まれつきのもので、身体ではなく脳の機能障害だ。
俗に「アスペルガー症候群」と呼ばれる自閉症スペクトラムのひとつである。
いわゆる「自閉症」と違って知的障害はないのだが、コミュニケーション力に著しく難がある。
他人の気持ちを読み取れないのだ。
私が正式に「アスペルガー症候群(以下、「アスペ」と略す)と診断されたのは数年前だが、それ以前から自分でも「そうじゃないかな」と思っていた。
よくみんなが「空気読め」とか言うけど、私にはその空気というやつが読めない。
だから、
「みんな本当に空気なんて読めてるの?
読めてるふりしてるだけか、読んでるつもりになってるだけじゃない?」
などと心の中で疑っていた。
ただ、自分がしばしば周囲の顔色などお構いなしに言いたいことを言ってしまう癖があるのは知っていたし、冗談が通じなくて真に受けたりすることも多々あるので、「もしかしたら私はアスペかも」と思っていたのだ。
私がアスペの診断を下されたと話すと、いぶかる人が何人かいる。
「え? だって、あんなに人の気持ちを見抜いたり洞察したりできるじゃん」と言われるのだが、それは私が人の気持ちを「感じ取って」いるのではなく、理屈で「分析」しているからだ。
アスペには人の気持ちがわからない、というのは本当だ。
しかし、「分析」や「シミュレート」ができないわけではない。
というか、むしろ得意分野であろう。
多くの人は、相手の表情とかそれこそ空気とか、非言語的な情報から他人の心を読み取る。
だが私はそれが苦手なので、言語的に「分析」するのである。
「この人はさっき、こういう言葉を使った。
あそこでAではなくBという言葉を使ったということには、何か理由があるはずだ。
それは何故か?」
といった感じで、相手の言動の裏に隠された真意を読み取ろうとするわけだ。
それが当たると、みんなは「洞察力がある」と思うらしいが、直感的な洞察ではなく、あくまで「分析」と「推理」の結果に過ぎない。
練習すれば誰にでもできることだ。
私に何か特別なものが見えているわけではない(笑)。
私がこの「分析」と「推理」という手法を身につけたのは、おそらくアスペゆえであろう。
人一倍、空気が読めないので、その代わりに「見えるもの(すなわち言語的なもの)」で推し量ろうとした結果、こういう癖がついたのだ。
一時期、犯罪者の心理にひどく興味があって、そういう物をいくつか書いていた時期があったが、この時に例のスキルをフルに使った。
私のこの手法は賛否両論で、「あまりにも中村の主観的バイアスが強過ぎる」という批判と同時に、「そのバイアスこそが中村の個性と視点であって、そこが面白い」という意見との両極端に分かれた。
事件の真実を探求するドキュメンタリーとしてはダメだっただろうが、そもそも「真実なんて人それぞれの主観の産物でしょ」と思っている私にとっては、「私がこの事件をどう見るか」の方が大事だったのである。
他人の評価は確かに欲しいが、それより何より、自分が楽しめるかどうかが重要な私にとって、好き勝手に犯人の心理を分析して「何故、こんな事件が起きたのか」を推理するこの仕事は最高の娯楽であった。
まぁ、これもアスペだからこその作品だったと考えれば、障害というものもなかなか捨てたものではない。
よく「障害は個性」などと言う人がいるけど、とても薄っぺらな表現ではあるものの、ある種の核心は突いていると思う。
特に私のアスペは私という人間の人格形成や視点に大きな影響を及ぼしているので、「私の個性」と言えるだろう。
良くも悪くも、私は「アスペ」によって作られた人間なのだ。
今にして思えば、私は幼い頃から変わり者だった。
友だちと遊んでいても、どこか違和感を抱き続けていた。
思いも寄らない非難を浴びて当惑することもしばしばああったし(他の子どもたちにとっては言わずもがなの「暗黙の了解」を私は理解していなかった。
言語化されない「暗黙」はもっとも苦手分野なのである)、理由もわからず教師やクラスメイトに嫌われることもあった。
世の中は非言語的な掟に満ちていて、それが読めない私はことごとく間違った言動で周囲を苛立たせていたのだろう。
ただ、彼ら彼女らもまた、その苛立ちの理由を言語化できないので(なにしろ非言語的「暗黙の了解」なので本人たちもうまく説明できない)、私はますます混乱するのだった。
だって、その「暗黙の掟」というやつは、コミュニティによって違うんだもの。
「人を殺してはいけない」とか「人の物を盗んではいけない」とか、全世界的に共有されている掟ならわかるが、コミュニティ独特の掟なんて言語化してくれないとわからない。
私は転校が多かったので、自分が常に味わっているその戸惑いと意味不明感と疎外感を「転校生だから馴染めないのだ」と思い込んでいた。
だが、今振り返ってみると、それはきっと私がアスペだったからなのだろう。
そのせいもあってか、私は読書にのめり込んだ。
「言語」によって構成されている本の世界は、私にとってきわめて理解しやすく親和性の高いものだったのだ。
本を読むことで、私は「言葉による表現」を学んだ。
みんなの共有している非言語的表現が理解できなかった私は、「言語表現」に自分の活路を見出したわけである。
よく「アスペはほのめかしや当てこすりが読めないから暗喩も苦手なのではないか」と言う人がいるが、私は「暗喩」が好きだし理解もしている。
何故なら「暗喩」もまた「言語」だからだ。
私は確かに「ほのめかし」や「当てこすり」が苦手だが(そういうことをされると、まるで煙に巻かれたような気分になる)、それは「言語」ではないからだ。
「言語」の裏にある非言語的な空気や表情が読めないのであって、「暗喩」のように表情や空気を伴わない純粋な言語表現は例の「分析」と「推理」によって謎解きできる。
むしろ非言語的表現に慣れている人ほど、驚くほど「暗喩」を理解していない場合が多い。
このように、アスペという脳機能障害は、私という人間の根幹をなしている。
それを「個性」と思うか「欠陥」と捉えるかは人それぞれであろうが、私自身は「個性であると同時に欠陥である」と考えている。
そのマイナス要素は、決して見過ごせないものだからだ。
私は物心ついた時から、アスペという障害とともに生きてきた。
私の「不全感」はそこにある。
でもね、今でも私は心の底で疑っているの。
本当にみんな、他人の気持ちなんか読めてるの?
(つづく)
イラスト:トシダナルホ
編集・構成 MOC(モック)編集部
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