〜連載第22回〜
自立を目指して生きてきたら、いつの間にか孤立していた。
依存症に苦しんでたら、共存という新たな道が見えてきた。
これは、そんな私の半生の話です。
「青い鳥」をひたすら探して求めて生きてきた私が、「青い鳥」を手放すことこそ幸福なのだという結論に達するとは、なんとも皮肉な話である。
だが、小説でも何でも、私はこういう逆説的な結末が好きだ。
だから、いかにも私らしい人生のオチだと思う。
何かを手に入れることが幸福なのではなかった。
すべてを手放すことが幸福だったのだ。
しかし、人は何かを追い求めずにはいられない生き物だ。
追い求めることが人生の醍醐味だったりもする。
だから、若い頃はいくらでも幻の「青い鳥」を探し続ければいいと思う。
それが幻だとわかっていてもいいのだ。
全力疾走で追いかける、あのキラキラした気持ちは、何物にも代えがたい。
何かが足りないという不全感を抱いて、人は生きる。
その不全感は苦しいけど、生きるうえで大切な燃料となる。
足りない物を手に入れたら自分に満足できるかもしれないと望みをかけ、必死で手を伸ばしながら前へ前へと走り続けるための燃料だ。
手に入れた途端、その「青い鳥」は偽物だと気づくかもしれない。
それでもいいのだ。
追いかけたその時間が、人生を彩っていく。
結局のところ、人生とは、結果ではなくプロセスなのである。
何を得たか、何を失ったか、という収支決算表で、我々の人生が決まるのではない。
何かを得ようと夢見たこと、その夢を追いかけたワクワクするような日々、それが人生を作り上げるのだ。
人から見てバカバカしくても、自分にとってかけがえのない経験ならば、あなたの人生は大成功だ。
欲しい物が手に入らなかった落胆や、手に入れた物が壊れていく悲しみや、そういう負の体験も含めて、人生は奥行きと陰影を増していく。
そして、そのようなプロセスを経てこそ、最後の最後にすべてを手放すことの意味を知るのだ。
それがいかに大いなる救済であり解放であるのか、それはもう人生の半分以上を夢中で間違え続けた私にはよくわかる。
陶酔と失望、達成感と喪失感を繰り返し、幾多の愚行と過ちを犯しながら、それでも後悔なんか一切なく笑って死ねるのは、全力で生きたという実感が私にあるからだ。
やり残したことなど、ひとつもない。
思いっきり楽しんで、思いっきり苦しんだよ。
生きるのがこんなに辛いならいっそ死にたいと願ったこともあった。
だけど今は、その苦しみさえ、全力で生きた証のように思える。
苦しむことには意味がある。
苦しまなければならない時も、人生にはあるのだ、と。
私は無理やり自分の人生を正当化しようとしているのかもしれない。
年を取ると、しばしばそういう風になるものだ。
幻の「青い鳥」を追いかけることに疲れて、「青い鳥」なんかいなかったのさ、追いかけることに意義があったのさ、と嘯いてるだけなのかもしれない。
「負け犬の遠吠え」というやつだ。
だけど、それにしては、己の人生に納得しまくっている自分がいる。
いかにも私らしい人生だったなぁ、と、苦笑しながら感心している自分がいる。
苦笑であれ高笑いであれ、とにかく笑って死ねればいいではないか。
人生は長い長い夢である。
夢を見ているのが自分なのか、あるいはまったくの別人なのか、それすらも私たちにはわからない。
だけど、そんなことはどうでもいい。
その夢を作っているのは、他ならぬこの「私」なのだから。
「死」という結末によって、その長い夢が終わった時、私たちはどこかで目覚めるのではなく、その夢もろとも泡のように消える。
跡形もなく消え去る「私」の、なんと清々しいことだろうか。
泡と変えた私の中から、一羽の青い鳥が飛び立つ光景を私は思い浮かべる。
その鳥は「私」ではない。
夢の中で生きた私が、その夢の中で見た夢だ。
夢の中の夢。
それが「青い鳥」の正体だ。
私の夢の産物であり、私が生きるために必要とした存在。
それが、最後の最後に私から飛び立っていくのである。
「青い鳥」は、しばらく虚空を舞った後、ふっと消えていくだろう。
そこで初めて、私の人生は完結する。
そんな終わり方を、私は幸福だと感じる。
老いてボロボロになっていく私の肉体の中で、「青い鳥」は飛び立つ準備をしている。
ようやく私から解放される日を、心待ちにしているのだろう。
私もまた、そいつから解放される日が待ち遠しい。
かつて、あれほどまでに欲し、あれほどまでに苦しめられ、そしてあれほどまでに生きる実感を与えてくれたその鳥は、私とこの世を結びつける唯一の臍の緒だったのだ。
何の意味もなくこの世に生まれてきた私には、この世と自分を繋ぐ臍の緒が必要だった。
私は自分の人生に意味が欲しくて、この世界に存在する理由が欲しくて、幻の「青い鳥」を作り出した。
その幻を死ぬまで老い続けることが、私の命題であった。
「青い鳥」は私の家にいたのではなく、私の中にいたのだった。
それは「煩悩」であり「業」であり、「我」であった。
だけど、それがいなければ、私は抜け殻だったのだ。
(つづく)
イラスト:トシダナルホ
編集・構成 MOC(モック)編集部
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