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自立と孤立、依存と共存 中村うさぎ連載コラム 〜第23回〜

 

〜連載第23回〜

自立を目指して生きてきたら、いつの間にか孤立していた。

依存症に苦しんでたら、共存という新たな道が見えてきた。

これは、そんな私の半生の話です。

 

いろんなものを手放して楽になったと述べた私であるが、何を手放したことで一番楽になれたのかというと、やはり「女であること」ではないかと思う。

 

「女であること」は、ずっと私の人生に付きまとってきた。

私が望まなくても、それは私を縛りつけ、他者は私を「女」と規定して扱った。

それに反発する一方で、「女であること」の快楽も私は知っていた。

良くも悪くも、「女であること」は私のアイデンティティの根幹だったのである。

 

だが、女はある時期から、「女扱い」されなくなる。

若い頃には望まないのに「女扱い」されることに憤慨したものだが、年を取って「女扱い」されなくなると、なんだかものすごい欠落感を味わう羽目になった。

それは、たとえば「閉経」といった生理機能的に女を喪うことではなく、あくまで他者からの扱いによって「女の喪失」を実感させられるのだ。

 

つまり、若い頃には「女であること」を強いられ、年を取ると「女であること」を剥奪される。

「女であること」とは、本人の自認の問題ではなく、他者による規定であったのだと、つくづく思い知った。

男の場合は、おそらくそうではあるまい。

自分の性欲や身体機能の衰えによって「男であること」の自信は揺らぐかもしれないが、他者から「男」として視られなくなったことなど気づきもせず、あるいは気づいても歯牙にもかけず、己に性的欲求がある限り、男であることに疑問を抱かない……そんな気がするのだが、いかがだろうか?

 

これはセックスにおける「主体性」に関わっているのだろうか。

男は求める性で、女は求められる性だと、当人たちが思い込んでいるからか。

だが、言うまでもなく、セックスに対して女も主体的である。

女だって求めるし、女だって男を性的な視線で見る。

ただ大きく違うのは、求めて断られた場合に、男より女の方が傷つくという事実だ。

そのくせ、女は男を平気で断る。

 

これは、「求める性」「求められる性」という視点ではなく、「断る性」「断られる性」という視点で考えるべきかもしれない。

断る権利は男女の別なく誰にでもあるのだが、断られた時に傷ついたと訴えるのは圧倒的に女性の側だ。

これは何故なのか。

 

「据え膳食わぬは男の恥」という言葉がある。

女の方から誘ってるのに断るのは男としてダメじゃん、という価値観だ。

もちろんそんなはずはなくて、べつにセックスしたくない相手と無理してセックスする義務など誰にもない。

昔ならいざ知らず、現代人は誰しもそう考えているだろうと思っていたが、じつのところ、「女が誘ってるのに断るなんて!」「女に恥をかかせるなんて!」と思っている女はまだまだ大勢いる。

同じ台詞を男が言ったら、「それ、セックスの強要じゃん」と思うはずなのに、だ。

 

この男女の「非対称性」が、女という生き物のアイデンティティに深く関わっているような気がする。

女であることの快楽も、生きづらさも、すべてはここに起因している気がするのだ。

が、私がここで言う「非対称性」とは、これまでフェミニズム的論調で語られてきた「男性優位」の構図ではない。

むしろ、逆ではないのか。

 

男は求めて断られても甘んじるべきだが、女は求めて断られたら怒っていい。

断った男が失礼で無神経なのであり、女を傷つけ恥をかかせた野暮天なのだ。

その一方、断られて恥をかかされた男が怒ると「性の強要」として非難される。

ね、これ、おかしくない?

断られて傷つくのはお互い様だし、断る権利があるのも男女平等でしょ。

 

セックスレス夫婦の話などを聞いていても、同じような不平等を感じる。

夫がセックスしてくれないと訴える妻に世間は同情的だが、その一方で「旦那なんかとセックスしたくない。向こうはしたがるけどね(笑)」と自慢げに言う妻は非難されない。

同じ台詞を男が言ったら、妻をバカにしてると猛攻撃を受けるだろう。

夫が妻とのセックスを拒否したら「侮辱」になり、妻が夫のセックスを拒否したら「仕方ないよね。嫌なのに無理にする必要ないし」とみんな頷く。

私は、どちらかが嫌ならセックスは成り立たないと思うので、長年連れ添った夫婦がセックスレスになるのは自然な現象だと思っている。

だが、断るのが夫か妻かで世間の反応が違うのは、どうしても納得がいかない。

 

もちろん、女であるがゆえに出世できないとか、そういうのは「男女差別」だと私は思う。

男が圧倒的に社会的強者である現状は、改善されるべきだろう。

だが、その構図は「性」にも当てはまるのか?

私の目には、「性的強者」は圧倒的に女の側であるように映る。

もちろん、レイプや痴漢といった性犯罪は別として、だ。

犯罪はもう「性的強者/弱者」の問題ではない。

犯罪者自身の倫理観の問題だ。

 

女は「性的強者」という立場を手放さず、ずっと固持してきたのだ、と考えてみよう。

それゆえ、魅力的な女性は讃えられ、そうでない女性は見下される。

ここで讃えたり見下したりするのは、何も男性ばかりではない。

女性が女性を、そういう観点から讃えたり見下したりするのだ。

つまり、「性的強者」であればあるほど女性の価値は上がる、という価値観を男女ともに共有しているわけである。

これは男が女に押し付けた価値観ではなく、女が「性的強者であること」に強く執着しているからだと考えられる。

女は、この美味しい既得権益を手放したくないのだ。

だから、強者であるはずの自分が弱者の男から断られると、ひどくプライドが傷ついて腹が立つ。

主人が使用人に反抗されて怒るのと同じである。

 

エロスは「権力」である。

それはおそらく、富や地位などの社会的ヒエラルキーが作られる前から厳然と存在していた、世界でもっとも古い「権力」なのだと私は思う。

私を含めた女たちが「女であることと」に振り回され、縛られ、苦しみながら生きるのは、じつにこの「権力」への渇望と執着が女自身の中にあるからだ。

だからこそ、年老いてその権力を失った時に感じる喪失感の大きさは、男性の比ではない。

 

私たちを縛っているのは私たち自身の価値観であり、私たちを解放するのは私たち自身の「内なる改革」なのである。

(つづく)

 

イラスト:トシダナルホ

 

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編集・構成 MOC(モック)編集部
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PROFILE

中村 うさぎ

1958年生まれ。エッセイスト。福岡県出身。
同志社大学文学部英文学科卒業。
1991年ライトノベルでデビュー。
以降エッセイストとして、買い物依存症やホストクラブ通い、整形美容、デリヘル勤務などの体験を書く。

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