〜連載第52回〜
自立を目指して生きてきたら、いつの間にか孤立していた。
依存症に苦しんでたら、共存という新たな道が見えてきた。
これは、そんな私の半生の話です。
自分は野垂れ死んでも全然構わないのだが、私には夫を扶養する義務がある。
仕事も何もかも捨てて自由になることを夢見ても、ずっと支えてきてくれた夫のことを考えると、どうしても「彼が当面の間、生活できる何かを残さなきゃ」という問題が立ちはだかるのだ。
だが、浪費三昧で生きてきた私に貯蓄などあるはずもなく、今後も貯蓄できるあてなどない。
どうしたらいいものか……と、考えた時に、真っ先に頭に浮かんだのは、親の財産だった。
私はひとりっ子だから、親が死ねばその遺産はすべて私のものだ。
たいした遺産ではあるまいが、夫ひとりでしばらく生活するくらいの金額はあるだろう。
両親が死んでその遺産が入れば、私はそれをすべて夫に譲って、心置きなく自由の身になれる。
ああ、早く死ねばいいのに。
そう思った途端、さすがに酷いことを考えるもんだと自分自身に呆れたが、これは嘘偽りない私の本音であった。
他人が聞いたらとんでもない人間だと思われるのも承知だし、こんな本音を公言したら最大級のバッシングを浴びることもわかっている。
わかっているけど、それはあくまで「社会的通念」であって、私個人の感覚ではない。
親が早く死ねばいいのにと思う自分に対して、私はまったく罪悪感を持たないのだ。
ただ「人が聞いたら戦慄するんだろうな」と思うだけである。
私には、世間の人たちがあんなにも親を愛したり憎んだりする気持ちがわからない。
愛も憎悪も、ともに強い執着である。
だが、私は親に対してそんなに強い感情を抱けない。
私にとって彼らは、ものすごく「他人」だ。
親が上京してきて「会いたい」と言えば会うし、その数日間は母親の面倒も少しは見るが、それは単なる義務感だ。
会えて嬉しいという感情も特にないし、逆に会いたくないとも思わない。
認知症の母を見ながら悲しい気持ちになったり罪悪感に捉われたりしたことも確かにあったが、それが「愛情」なのかは自分でもよくわからない。
だって、その一方で私は、確実に面白がっていたもの!
普通、自分の親が認知症になったのをあんなに面白がる人はいないんじゃないかと思う。
私のこの「親に対する冷淡さ」は、いったい何なのだろう?
そこで思い出すのが、カフカの「変身」に描かれている家族の奇妙な距離感だ。
認知症になった母は、虫に変身したザムザのようだ。
もう以前の母ではないし、人間ですらないように感じることもある。
父は虫になった母を何とか世話しようと努力しているが、その気持ちが「愛」なのかどうかはわからない。
以前、父に「お父さんがお母さんの世話をしてるのは、愛なの? それとも義務感なの?」と尋ねたら、「2、3割は愛だろうが、主にキリスト教徒としての義務感と使命感だな」という至極冷静かつ正直な答が返ってきて、それを聞いた私は妙に腑に落ちてしまった。
何故なら、私も母に対して、そういう気持ちだからだ。
私の場合、「キリスト教徒としての義務感」はないが、「制度としての家族の義務感」みたいな感覚はある。
心の中に自然に湧き上がる「血縁としての家族の情」などではなく、あくまで「制度としての家族の義務感」だ。
それは、虫に変身したザムザを家から追い出すこともしないが、特に情愛を持っている様子もなく、ただ淡々と最低限の世話だけはするあの家族と、非常によく似た距離感だという気がする。
私の家族は「虫の家族」なのかもしれない。
私はアスペで父もまたおそらくアスペだと思われるが、そのせいかどうか、とにかく普通の人が家族に抱く情愛がきわめて乏しい。
父には三人の姉がいたが、そのいずれに対しても、父は非常に淡々としていた。
そして私もまた、自分の両親を、どこか他人事のような醒めた目で見ている。
だが、逆に私にとっては謎なのだ。
他の人たちは何故、あんなに血縁に強い幻想を抱き、愛憎入り混じった深い感情を持てるのか?
血が繋がっていても互いを理解し合えるわけではないし、理解してくれないからと恨んだり憎んだりする筋合いもない。
家族は、私が人生で最初に会った「他者」である。
それ以上でもそれ以下でもない。
両親はついぞ私を理解しなかったが、他者なのだから当たり前だ。
両親に比べれば、血の繋がってない夫の方がずっと私を理解しているが、それはたぶん彼が私を理解しようと長年努力してきたせいだ。
人を繋げるのは「血縁」でもなければ「思想」や「宗教」の共有でもないと私は思う。
自分とはかけ離れた他者の価値観や世界観を少しでも理解しようとする努力、そして、自分とは違う他者を受け入れようとする寛容である。
共感やら絆やらを訴える人に限って、まるで違う価値観や世界観を持つ他者に対して、きわめて不寛容だ。
共感や絆は「同調圧力」を生み、そこに溶け込めない異邦人を排斥するからだ。
アスペは他者への共感能力が低いと言われる。
だからこそ、アスペは他者を理解しようと努力し、観察と分析を通して他者の価値観や世界観を推測する。
それを共有することは少ないが、激しい拒絶や排斥もしない。
何故ならアスペにとって、他者が「私から遠い存在」であることは自明の理であり、その事実に対していちいち怒りや衝撃も生じないからだ。
アスペは永遠の「よそ者」であり、誰とも通じ合うことなくひとりで死んでいく「虫」のような人間だ。
だが、それは他者とのしがらみにがんじがらめにされて生きるより、はるかに自由で解放感に満ちているのだと、先日の夢が教えてくれた。
いつか私は安息の地を見つけて、そこで静かに死を待つだろう。
それでいいんだ、と、心の底から思える。
よそ者に帰る場所など必要ない。
死に場所は放浪の果ての見知らぬ土地で構わない。
そこで他者から解放され、「私」から解き放たれて、私はようやく「何者でもない」存在になれるのだ。
(つづく)
イラスト:トシダナルホ
編集・構成 MOC(モック)編集部
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