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自立と孤立、依存と共存 中村うさぎ連載コラム 〜第21回〜

 

〜連載第21回〜

自立を目指して生きてきたら、いつの間にか孤立していた。

依存症に苦しんでたら、共存という新たな道が見えてきた。

これは、そんな私の半生の話です。

 

穴の開いた靴から水が浸みこんでくるように、私の身体にじわじわと老いが浸透していく。

そして、穴はあちらこちらに増えていく。

 

白内障が進行して目がかすみ字幕が読めなくなったので、洋画はもっぱら吹き替え版を観るようになった。

歯はボロボロになって、硬い物が食べられなくなった。

数年前に転倒して突き指した左手の中指が、治るどころか鉤爪のようにどんどん曲がって固まっていき、今ではキーボードもうまく叩けない。

 

そんな毎日を、最近は特に悲しむこともなく、「ああ、仕方ないな」と思うようになった。

ついこないだまでは悔しがったり惜しんだりしてたのに、大変な心境の変化である。

この心境の変化は何故なのか。

 

それは、このエッセイを書いているからだ。

自分の老いについて書いているうちに、それを受け容れられるようになった。

老いについて考え、老いに戸惑う自分を見つめ、それを言語化しているうちに、私の中で「老い」への不安や恐怖が薄れていった。

 

老い衰えることは、自分への執着を手放していくこと。

それが悔しかったり怖かったりするのは、私がまだ自分に執着しているからだ。

私は自分を手放したい。

この牢獄のような「私」という主体から解放されたい。

このエッセイを書いているうちに、そんなふうに思うようになったのだ。

 

思えば私は、「書く」という作業に随分と救われてきた。

買い物依存症の頃だって、もしもエッセイを書く仕事に就いてなかったら、とっくに私は破滅していただろう。

「私とは何か」と自分に問いかける機会もなかっただろう。

私は私を観察し描写することで、自分の執着をひとつひとつ掘り起こし、そのたびに呪縛から解き放たれていったような気がする。

 

そして今、最後に残されたテーマが「老い」なのだ。

「老い」を呪縛ではなく解放と捉えること。

私をがんじがらめにしていた鎖の最後のひとつを取り外すこと。

 

私を縛る鎖は、たくさんあった。

「私はこうありたい」というナルシスティックな理想の呪縛。

親や世間から「こうあるべし」と刷り込まれた呪縛。

「愛されたい」という呪縛。

そして、「幸福になりたい」という呪縛。

 

そう、若い頃の私は「幸福とは何か」を定義せずに、ただ幸福になることを望んでいた。

だが、自分にとって何が幸福なのかを見極めない限り、幸福を手にすることはできない。

何を手にしたいのかわからないまま、私は迷走を続けた。

私にとっての「幸福」は、富か? 名声か? 社会的地位か? 愛か? 美か?

わからないままに、それのどれもを片っ端から手に入れようとした。

その結果、「これじゃなかった」「これでもなかった」と放り出し、欲しくもなかったものに囲まれて、呆然とする始末であった。

 

当時、大嫌いだったのが、メーテルリンクの「青い鳥」だ。

「青い鳥は僕たちの家にいたんだね」とチルチルとミチルが微笑み合うラストシーン(原作ではこれがラストシーンではないが、私の読んだ絵本ではそうだった)。

幸福は本当はあなたのすぐ近くにあるのに、あなたが気づかないだけなんですよ、と言わんばかりの説教臭いエンディングだ。

 

そんなことがあってたまるか!

幸福は自ら獲りに行くものだ。

私は私を幸福にするために生きてるんだから!

何もしないで家にいたらそこに幸福があったなんて、そんな脳天気な話があるものか!

 

若い頃の私はそう考えていた。

いや、今でも「幸福は自分で探さなくては見つからない」と思ってる。

ただ、その前に、「自分の幸福とは何か」を探さなくてはならないことに、当時の私は気づいてなかった。

ただ闇雲に、「幸福」のように見えるキラキラしたものに突進していっただけだったのだ。

 

しかし、「青い鳥」の原作には、あのエンディングの続きがあった。

チルチルとミチルの家に隣のおばさんが訪ねてきて、病気の娘を治してやりたいから青い鳥を貸してくれ、と頼むのだ。

もちろん、二人は快諾する。

そして青い鳥を連れて病床の娘を見舞いに行くと、娘が手を伸ばした途端に青い鳥はどこかに飛んで行ってしまい、娘の病気は結局治らない。

 

チルチルミチルにとっての「幸福」は、隣の娘の「幸福」ではなかったのだ。

自分の幸福は他人の幸福ではありません……それが「青い鳥」という作品のメッセージだったのである。

それを「本当の幸福は自分の家にある」なんて偽善的なメッセージに書き換えた人間は罪深い。

 

私にとっての「幸福」は、他人にとっては価値のないものかもしれない。

他人が「幸福」と考えるものが、私にとっては「不幸」である可能性もある。

ゆえに「幸福」は、安易に他人に押し付けるものではないし、他人のそれを羨んでも意味がない。

「青い鳥」が言っていたことを、私は半生かけて学んだのだった。

 

「結婚」すれば幸福になれるかと勘違いしていた時代、「富」の象徴としてブランド物を買い漁った時代、「愛」を求めて恋愛を繰り返した時代、「美」を手に入れれば何とかなるような気がしていた時代……そのような、何羽もの「他人の青い鳥」を捕まえては放し、見つけては逃げられてきた私である。

そして今、「老い」と「死」を目前にし、足も不自由になった私は、意外にも「幸福」な気分の中にいる。

こんなボロボロの身体で、他人が見たら不幸としか言えない状況で、私は奇妙に納得しているのだ。

 

私にとっての「青い鳥」は、私を手放すことだったのである。

(つづく)

 

イラスト:トシダナルホ

 

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編集・構成 MOC(モック)編集部
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PROFILE

中村 うさぎ

1958年生まれ。エッセイスト。福岡県出身。
同志社大学文学部英文学科卒業。
1991年ライトノベルでデビュー。
以降エッセイストとして、買い物依存症やホストクラブ通い、整形美容、デリヘル勤務などの体験を書く。

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