〜連載第47回〜
自立を目指して生きてきたら、いつの間にか孤立していた。
依存症に苦しんでたら、共存という新たな道が見えてきた。
これは、そんな私の半生の話です。
私がプレイしている「ドラクエ10」というオンラインゲームに、プレイヤー同士が戦うコンテンツがある。
私はこれがどうにも不快で悲しい気分になるので、絶対にプレイしないことにしている。
戦う相手がモンスターやNPCなら何の感情も動かないのだが、相手が自分と同じように意思や感情を持つ人間だと、たちまち怒りや憎悪が湧き上がるのだ。
ただのゲームだとわかっているのに、なんかどす黒い感情が胸の中で渦巻く。
自分が他のプレイヤーを殺すのも気分が悪いので、戦わずにひたすら逃げ回るのであるが、それでもしつこく追いすがってきて私を切り刻む相手には悪意しか感じない。
ところが不思議なことに、対戦相手が仲のいいフレンドだと、殺し合いもすべてジョークとなるので笑いながらプレイすることができるのだ。
どうせ本当に死んでいるわけではないし、戦争ごっこやサバイバルゲームをやっているような気分だ。
これは、興味深い現象だと思う。
これがリアルなら、友人を殺すより見ず知らずの人間を殺す方が、ずっと気が楽なはずではないか。
なのにゲーム上での殺し合いは、相手に対する親愛の情が強ければ強いほど、戦闘は非現実的なごっこ遊びと認識され、じゃれ合ってる感さえあるのだ。
つまり、こういうことである。
相手が私に対して悪意も敵意もないという確固たる信頼関係があれば、私は戦争ごっこを楽しめる。
だが、相手が見知らぬプレイヤーだと、そこに「悪意」や「敵意」を感じてしまうのだ。
向こうだってゲームなんだから、本気で私を憎んでいるわけではなかろう。
そんなことは百も承知だが、愛や信頼関係のない他者の攻撃に、私は寛容ではいられなくなる。
「勝つために他人を殺して、あんた、楽しいの!?」と相手を問いただしたくなるのだ。
ただのゲームなのに(笑)!
知らない人間を警戒し、基本的には好意より嫌悪や猜疑心が先行し、些細なことにも目くじらを立てる傾向は、私の場合、リアルでもたびたびある。
こういう人間を一般的に「人見知り」というが、よそ者に対する警戒心・疑心・潜在的な憎悪や排除欲求は、おそらくすべての人間に共通するメンタリティであろう。
ユダヤ人が差別され続けたのは、彼らがどこに行っても「よそ者」だからだ。
ジプシーと呼ばれたロマ人も然り。
放浪する彼らは常に「よそ者」であり、罪と穢れと災厄を持ち込むウィルスのように忌み嫌われた。
この世から「差別」がなくなることはないと私は考えているが、それは我々人間の中に深く埋め込まれた「よそ者への不信と憎悪」が原因のひとつである。
いや、さらに言えば
「個人の自由」やら「多様性」やらというものは、「人権」と同様、所詮、後付けの概念だ。
社会という巨大な共同体の中で共存しなければならない我々が、より平等で公正な形で個人の幸福を追求できるようにと編み出した理想に過ぎない。
ひと皮めくれば、その下には、異質な他者を排除しようとする「全体主義」的欲求がふつふつと滾っているのである。
我々は差別が大好きだ。
我々は異端者の駆逐が大好きだ。
我々は、自分に似た者しか愛せない。
いや、さらに言えば、我々は自分しか愛せない生き物なのだ。
自分以外の人間には、根源的な敵意と不寛容をいかんなく発揮する。
その敵意と不寛容を緩めるのは、自分と近しくなった者……すなわち自分の延長線上にいる者に対してだけだ。
我々は常に他者の承認や繋がりを求めるが、それはひとりでも多くの他者を自分の延長線上に取り込み、「私帝国」を拡張するためである。
つまり、友情だの愛だので結ばれた「私帝国」の住人たちは、みんな「私」の分身なのだ。
だからこそ、「私帝国」に属さない異端者を激しく憎み排除したがる。
世界を「私」色に染めたいからね。
これぞ、ナルシシズムの究極である。
我々は放っておけば「私と似た人」を集めて結束し、似てない者を排斥ししたり同化を強制したりする「全体主義」を目指すようになる。
それが人間の「真の姿」だ。
だから、どんなに知的で洗練された人間でも、「自分の正義を振りかざして嫌いな他者を排斥する」という誘惑にはいとも簡単に屈してしまう。
「正義」という雑な概念で、己のナルシシズムを正当化できるからだ。
この非情にして偏狭なる人間の本質を描いたのが、カフカの「城」と「審判」である。
この2作品は徹底した「よそ者」の視点で世界が描かれている。
おそらく、カフカ自身が、どこに行っても「よそ者」感を抱いていたのだろう。
世界は主人公の知らない暗黙のルールで動いており、主人公はわけもわからないまま、そのルールに翻弄される。
そこに登場する人々は揃ってグロテスクで意味不明だが、彼らの目にはよそ者である主人公こそがグロテスクで意味不明な生き物として映っているのだ。
「審判」においては、主人公はその意味不明なルールに従って処刑される。
自分が何故処刑されるのか、まったく理由がわからぬままに。
カフカの描く世界は「不条理」と呼ばれ、その難解さが議論の元になるが、私には彼が世界に対して感じている「違和感」と「疎外感」がなんとなくわかる気がする。
何故なら、私自身も「よそ者」だからだ。
「アスペルガー」という障害を抱えた私にとって、世界は理解不能な謎に満ちており、他者は私の知らないルールを共有しているように見えた。
小学生の頃は転校が多かったので、その「よそ者」感は転校生だからかと思っていた。
だが、おそらく私はカフカと同様、どこに行っても「よそ者」だったのだろう。
私は永遠の転校生だ。
カフカの小説の主人公Kのように。
だが、その終始ついて回る「よそ者」感は、私に「自分とは何者か」という問いを授けてくれた。
何の苦労もなく周囲の世界に溶け込み、他者と共有している暗黙のルールに疑念すら抱いたことのない人々は、きっと「自分とは何か」などと考えないだろう。
考えたとしても、私とはまったく別の観点からだ。
世間でよくいう「自分探し」は、私に言わせると「なりたい自分探し」である。
自分には何か隠れた才能があり、それを発揮できる場所が世界のどこかに用意されているのではないか、というきわめてナルシスティックな「自分探し」だ。
だが、私の「自分探し」は、自分があまりにも謎なので仕方なく発生した作業なのである。
(つづく)
イラスト:トシダナルホ
編集・構成 MOC(モック)編集部
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