人生100年時代を楽しむ、大人の生き方 Magazine

自立と孤立、依存と共存 中村うさぎ連載コラム 〜第51回〜

 

 

〜連載第51回〜

自立を目指して生きてきたら、いつの間にか孤立していた。

依存症に苦しんでたら、共存という新たな道が見えてきた。

これは、そんな私の半生の話です。

 

 

昨夜、奇妙な夢を見た。

夫と夫の彼氏と私の三人で、湘南の海岸に来ている。

道路沿いには色とりどりの店が立ち並び、大勢の観光客で賑わっている。

大きなビルの中で何かイベントでも開催されているようで、どうやら私もその招待客らしいなのだが、私はヘソを曲げていてどうにもそのイベントに行きたくない。

義理で招待されたようなイベントなんかに行って、私のことをよく思ってもいない人々と上っ面の挨拶など交わしたくないのだ。

 

夫はワガママな私に愛想をつかしたらしく、私の歩行介助も放棄して、彼氏とともに離れた場所から冷ややかに見ている。

私はひとりで杖を突き、おぼつかない足取りで人込みの中をよろよろと歩いているのだが、そのうちにふと気づく。

私は本当は普通に歩けるのだ。

ただ夫の気を引きたくて、わざとよろめきながら歩いてるだけだ。

夫はそれを見透かしていて、私の介助を放棄したのだろう。

 

だが、私は介助を放棄した夫への面当てに、なおも不自由そうにふらふらと歩いている。

そして、夫のそばまで何とか辿り着くと「私、もうひとりで帰るから」と宣言する。

そう言えば夫が心配してくれるのではないかと期待してのことだが、夫は冷ややかな態度を崩さず「あ、そう。好きにすれば?」と答える・

これはもう完全に愛想をつかされたな、と私はそこで悟り、彼に背を向けて人込みの中を去っていく。

この足でひとりで電車に乗るのは不安なのでタクシーを止めようとするが、そこで急に金を持っていないことに気づく。

いつも夫が財布を持っているので、私は数千円くらいしか持ち歩いていないのだ。

湘南から東京の自宅まで数千円で帰れるとは思えない。

慌てて夫の姿を探すが、もはやどこにも見当たらない。

 

仕方なく、私はひとりでとぼとぼと歩き始める。

道路の向こうは斜面になっていて、そこを下ると砂浜と海が広がっている。

現実ではそんな急な斜面をひとりで歩けるわけないのだが、夢の中の私は楽々と斜面を下ってビーチに出る。

いつの間にか、杖もどこかに置いてきたらしい。

私は歩けるのだ、と確信して嬉しくなるが、それにしても、どこにも行くあてがない。

金がないから家にも帰れないし、とりあえずビーチに来たものの泳ぐつもりもないので、ただぼんやりと砂浜を歩き回っている。

いつの間にか日が暮れて、あたりは暗くなっているが、ビーチには相変わらず大勢の若者たちがいる。

夜の海では、信じられないほど幻想的な光景が繰り広げられている。

月の光の中でアザラシたちの群れが飛び跳ねて宙を舞い、大きな波の壁が押し寄せるとサーファーたちがいっせいに水面を滑り降りてくる。

 

私は水しぶきを浴びながら、ただただその光景に感動している。

やがて私は砂浜に横たわり、「ああ、このまま死んでしまうのもいいなぁ」と考える。

帰る家はないし、頼みの夫も去ってしまった。

私はこの世でひとりぼっちだ。

だが、何故だか全然悲しくも何ともなく、それどころか晴れ晴れとした解放感に満たされている。

ようやく死に場所を見つけた、という気分だ。

このまま砂浜に寝そべっていれば、満ちてきた海に呑まれて、眠ったまま溺れ死ねるかもしれない。

もう生きていかなくていいんだと思うと、心の底から安堵と幸福感が湧き上がってくる。

濡れた砂の上に体を横たえ、私はしみじみと喜びを噛みしめているのだった。

 

と、ここで目が覚めた。

目覚めて最初に思ったのは「死んでないじゃん!」ということだった。

なんだ、夢か。

幸せ過ぎると思ったよ。

それにしても、アザラシたちが空を飛ぶ姿は素晴らしかったなぁ。

湘南にアザラシなんかいるわけないのに、そんなことはどうでもよかった。

夢の中に出てきたあの美しい光景は、私なりの天国のイメージなのかもしれない。

 

夢の中でも、私は「よそ者」だった。

招かれたイベントは自ら拒否し、家族にも見捨てられて帰る場所もなくし、通りの向こうのビーチに行ったはいいが、そこにいるサーファーたちや声援を送る女子たちにも共感など何ひとつ感じず徹底して「見学者」であった。

そして、誰にも看取られずにひとり砂浜で死ぬことに、大いなる喜びと慰めを見出すのだ。

これは私が本当に心の底で望んでいる死に様なのだろうか?

孤独死したいなどと考えたことはないが、あの夢の中の至福感は嘘偽りないものであった。

仕事の付き合いも友人も家族も退けて、私は初めて自由に自分の足で歩けるようになり、その足でまっすぐ死に場所に辿り着くのだ。

 

しょせん夢じゃないかと笑われそうだが、私は夢を「無意識からのメッセージ」と捉えている。

私の中には、私が自覚してない「私」がいて、彼女が私にメッセージを送りたい時は夢という形を使うのである。

夢は、脳が情報の整理整頓作業をしている時の産物だと聞いたことがある。

実生活で処理されずに置き去りにしてきた感情や記憶を棚卸して、それを捨てるか貯めるか脳が決めているのだという。

だから夢自体は非常に断片的だし、たいていは「捨てていい情報」なので目覚めると速やかに忘れてしまう。

が、たまに今回のように目覚めた後も鮮やかに記憶に残っている夢があって、それは脳が私に「忘れるなよ」と送っているメッセージなのだ。

つまり、私が「もうひとりの私」と呼んでいる彼女は、私の「脳」なのである。

まあ、自分が女だから便宜上「彼女」と呼んでいるが、じつは性別などないのだろう。

それは、性別だの人種だのといったものをすべて取っ払ったうえで、なおも残っている「私」なのだ。

 

無意識の「私」は「死に場所を探せ」と言っている。

おまえの安息の地はそこしかないのだ、と。

それには、仕事や友人が属する社会的なコミュニティに背を向け、夫という肉体的精神的支柱である家族の助けも拒まなければならないようだ。

前者はもとより苦手な部類だからさほど辛くもないが、後者を手放すのは怖い。

しかし、「ひとりで死ぬ」ことがあんなにも晴れ晴れとしたものであるのなら、遅かれ早かれ、私はそれを棄てるのだろう。

 

そんなことを考えながら起きてパソコンのメールをチェックしたら、長らくお世話になっていたタカナシクリニックから「ブログを終了したい」旨のメールが届いていた。

クリニックの経営者が変わったのでなんとなくそんな気がしていたから特に驚かなかったが、これでひとつ仕事がなくなり、私と社会を結ぶ糸が一本切れたことになる。

私の方から背を向けるまでもなく、今後は社会の方が私を切り捨てていくのだな、と思った。

経済的な不安はあるが、心情的には荷物がひとつ消えてホッとした感もある。

 

いつか、夫も私から去っていき、私はどこかに「死に場所」を見つけるだろう。

そこは、アザラシが宙を舞いサーファーたちが波頭を滑走するビーチではないと思うが、とりあえず「生命」を謳歌しているものたちの姿にうっとりと見惚れながら、だが決してその群れに混じることもなく、私は「よそ者」として野垂れ死ぬのだ。

ああ、いかにも私らししい死に方ではないか。

(つづく)

 

イラスト:トシダナルホ

 

 

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編集・構成 MOC(モック)編集部
人生100年時代を楽しむ、
大人の生き方マガジンMOC(モック)
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PROFILE

中村 うさぎ

1958年生まれ。エッセイスト。福岡県出身。
同志社大学文学部英文学科卒業。
1991年ライトノベルでデビュー。
以降エッセイストとして、買い物依存症やホストクラブ通い、整形美容、デリヘル勤務などの体験を書く。

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