新時代・令和の幕開けを迎え、皆さんの心の準備はいかほどでしょう。
天皇即位にあたって行われる「大嘗祭」に向けて日本のあちこちで準備が進められていますが、そもそも大嘗祭とは一体?
この伝統的な祝い事について、豊富な専門的知識でお話いただくのは忌部文化研究会会長の林博章先生。
古代日本の中核を担った集団「忌部氏」に着目した林先生によると、忌部氏の視点に立てば日本創生からの歴史が見えてくるそうで……?!
古代日本のミステリーに迫るMOCインタビュー、スタートです!!
平成からバトンタッチし、5月から始まった「令和」。
新しい時代の幕開けに世の中はお祭りモードです。
天皇即位に伴って行われる「大嘗祭」に献上するため、御田植式がされたニュースも出ましたが……。
大嘗祭とはそもそもどんな祝事なのでしょう。
大嘗祭とは、天皇が天皇になるための儀式です。
大嘗祭を経ないと天皇にはなれません。そこには二つの意味があります。
ひとつは1700年続いている歴代の先祖の霊を、自分の身に宿らせるということ。
天皇霊を移します。
もうひとつは、豊穣を祝うということ。
豊葦原水穂国(とよあしはらのみずほのくに)と呼ばれたように、日本は弥生時代から水田稲作農耕の国です。
豊穣豊作でなければ生きていけなかったのです。
自然の恵みに感謝する儀式が新嘗祭で、日本ではどこの国でも新嘗祭が行われてきました。
新嘗祭は、宮中で毎年行われています。
天皇が代替わりするときには、日本を代表して新天皇が自然に感謝をする新嘗祭を行い、これを大嘗祭と呼んでいます。
令和元年は特別な新嘗祭となるんですね。
林先生が研究している忌部氏(いんべし)は古代氏族を指し、古代朝廷で祭祀にあたったといわれていますが、「阿波忌部」とはどんな集団だったのでしょう。
まず大嘗祭にあたっては、建物を造らなくてはいけません。
悠紀殿(ゆきでん)と主基殿(すきでん)と呼ばれる祭場です。
大嘗祭では、天皇がふたつの祭場に籠って一晩過ごすという儀式を行います。
そうして天皇になられます。献上するために選ばれたお米が悠紀殿(ゆきでん)と主基殿(すきでん)に祀られますが、着るものも祀られます。
これが麁衣(あらたえ)です。
悠紀殿と主基殿の足元には、布団のようなものがあります。
そこに麻織物の麁服、絹織物の繪服(にぎたえ)が置かれます。これは「神衣(かむみそ)」と呼ばれるものです。
大嘗祭で第一の神座に置かれるものが麁服ですね。
麁服は、徳島県の剣山系の深い山間部にある木屋平村の集落で刈り取られた麻を織ったものだと言われています。
場所にはどんな理由が込められていますか?
大事なことは、阿波忌部氏が栽培して織ったものしか麁服にならない点です。
阿波忌部氏が種をまくところから織物にするまでを統括していました。
天皇が代わるときだけ麻の織物を調進します。
特別な祭祀の、特別なアイテムを作る責任者ですか。
古代の重要なポストに就いていたのが、阿波忌部氏。
大嘗祭の歴史には欠かせない人たちですね。
稲もそうですね。
今回も大嘗祭のためのお米が選ばれました。
献上する稲を刈るときに使われるのは普通の道具ではありません。
尊い命をいただくのですから、忌鍬(いみくわ)で刈るります。
そこでも「忌」が!
米を刈りとったらさらに選別をします。
神様に喜んでもらうために最上のものを選ぶわけです。
現代産業は人を喜ばせるための営みが多いですが、日本人は歴史的に自然を喜ばせるためにものを生み出してきたんです。
自然からの恵みに感謝するでしょう。
その感謝の気持ちを表すために儀式を行い、最上のものを献上して喜んでもらおうと考えてきました。
そういった心が、日本のものづくりの根元にあるのでしょうね。
感謝の気持ちですか。
そう考えると、今の日本産業は危機にあるかもしれないですね。
利益追求に偏りがちなような。
大嘗祭を通して、見直してみましょう。
自然の恵みへの感謝を忘れてしまっては、日本文化、日本のものづくりは続かなくなると思います。
忘れてはいけませんね。
忘れないこと、続けることが日本を支えるんですね。
祭祀はどのくらい続いてきましたか?
正式な最古の記録としては、807年。
平安時代初期の『古語拾遺』です。
大嘗祭が正式に始まったのは約1300年前の天武天皇の時代。
その時代の木簡が徳島で発見され、「麻殖」(おえ)が記載されていました。
推定すると、大嘗祭がきちんと整備された1300年前くらいから阿波忌部氏の直系が調進し始めたのではないかと考えられます。
徳島は邪馬台国に関する噂も出ていますね。
私の研究もそういったところを正式に調べてみようかというところから始まりました。
最初は古事記や日本書紀を研究しましたが、忌部氏を研究の起点にするようになったのは、15年くらい前からですよ。
それにしても「忌部」ってインパクトある響きと字面です。
ちょっとおどろおどろしい。
「忌む」がネガティブイメージになったのは、おそらく最近のことだと思われます。
たとえばこの「忌」の字は、「己」と「心」から成り立っている字です。
人は起業など大事なことをするときは、自分の心に素直にならなくてはいけません。
忌の字を見てください。己の心を見つめているようでしょう。
おぉ~!印象が全然違って見えてきます。
おそらくもともとはポジティブだったのに、ネガティブなイメージになってしまったのではないでしょうか。
忌は、己の心をきちんと見つけたときにこそ物事は成功する、という意味に捉えていいと思いますよ。
名前の漢字表記を見て危険な人たちなのかと思っていましたが、偏見でした。どんな人たちだったのですか?
正式には、忌部はサイトウの「斎」を使って「斎部氏」書きます。
斎きなること(聖なること)、神様に関わることをしていました。
天皇家とともに、日本の土台を作ったと考えられています。
天皇は、昔の言葉で呼ぶなら大王(おおきみ)、倭王です。忌部氏は天皇と一緒に日本の国造りに参画して、日本建国をした一族です。
忌部氏の具体的な役割は?
弥生時代から古墳時代にかけて大和朝廷を整えるときに、日本の基本的な文化や衣食住に革新をもたらしたのが忌部氏です。
弥生時代までは銅鐸や銅剣を使って弥生の神に祈りを捧げていました。
それから日本(倭国)の建国をしようとしたのですが、東アジア地域は寒冷や洪水等の気候変動で被害を被り、よくない状況にありました。
弥生の神様が言うことを聞いてくれない、というような。
ちょうどそのとき中国の道教思想が流行っていましたので、日本に道教が持ち込まれました。
そういったものと忌部がもつ森の思想が一緒になりながら、神社のシステムが出来てきたのです。
そのシステムは1800年たった今でも機能していますね。
文化の礎を作ったんですね。
生活面ではどうでしょう。
お米にも忌部氏の影響があります。
忌部氏が勢力を誇っていたのは、剣山系。
四国の山地で、日本最大の焼畑農業地帯です。
2018年には忌部氏がいた剣山系を世界農業遺産に登録できました。
それくらい意味のある地帯なんですよ。
人間はお米だけでは食べていけません。
長雨、寒冷になったら全滅してしまいます。
弥生時代のように森の中を焼き払ったら大変なことになる、と忌部氏はわかっていました。
忌部氏は
「単一農業じゃだめだよ。
多様性農業をやりましょうよ。
五穀をちゃんとやろうよ」
と教えたわけです。
米、麦、粟、豆、黍の五穀ができたんですね。
農業革新だ!
忌部氏は農業技術も持っていましたからね。
それから、日本の衣服の原点は麻の服です。
弥生時代は麻の服をみんな着ていました。
忌部氏が重要な理由は、麻の服を神様の織物にしたこと。
徳島の伝承には「神麻」と伝えられています。
忌部氏が普通の麻を神麻に変えたというわけです。
なぜ徳島の麻だったのでしょう?
織物にはたくさんの種類があるんです。
平野で麻を作ると太くて重たくてごわごわするものができます。
忌部氏の集落は標高500m前後にあり、気温の寒暖差、上昇気流、霧などの条件が相まって、細くて強い麻が作られます。
現代でも、糸が重い服を着たらやっぱり重たく感じるものでしょう。
忌部氏が徳島で作った麻を着たら「軽いなあ!」と人が飛びつきますよ。
それから弓矢作りでも麻は重宝されていました。
弓の弦に麻を使いたくとも、平野で作った麻糸は強さがなく、弓を引いたときに切れてしまいますし命中力も低い。
ところが忌部氏の麻糸は細く強靭で、的中率が段違い。
品質にこだわりがあったんですね。
古代といえば鉄器も重要な技術。
忌部氏は鉄器工業には関わっていましたか?
その可能性はあります。
奈良より古い鍛冶工房が徳島で発見されましたから。
歴史の奥の奥深くを覗くなら、徳島から!
さらに阿波忌部氏の影響力は欠かせません。
日本建国、衣食住、技術革新……あらゆる文化発展には忌部氏の活躍がつきものだったよう。
2019年という日本節目の年に、日本文化の礎を築いた忌部氏に想いを巡らせてみてはいかがでしょう。
忌部氏のさらなる活躍ヒストリーは次回インタビューをお楽しみに!
写真:小谷信介 文:MOC編集部
編集・構成 MOC(モック)編集部
人生100年時代を楽しむ、
大人の生き方マガジンMOC(モック)
Moment Of Choice-MOC.STYLE