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自立と孤立、依存と共存 中村うさぎ連載コラム 〜第17回〜

 

〜連載第17回〜

自立を目指して生きてきたら、いつの間にか孤立していた。

依存症に苦しんでたら、共存という新たな道が見えてきた。

これは、そんな私の半生の話です。

 

救急車で行きつけの大学病院に運ばれた。

薬を勝手に中断したことを知った担当医は、当たり前だが、怒っているようだった。

 

すぐさま入院となって大量のステロイド投与が始まり、またしても不自由な病院生活に逆戻り。

リハビリも再開されて、歩く練習が一から始まった。

「元の木阿弥」とは、このことである。

だが、自業自得なのだから仕方ない。

 

私は自分の意思で、危険を承知で薬を断った。

それも「痩せたい」などという理由だけで。

 

身体を危険にさらしてまで美醜を気にする私を愚か者だと思う人は大勢いるだろう。

だが、私が何を最優先しようが、私の勝手である。

私はもう生きることに執着していない。

この先、何十年も健康で長生きしたいなど、微塵も思わない。

早死にしてもいいから、納得できる生き方をしたいのだ。

それには、自分を嫌いになる要素がひとつでも少ない方がいい。

 

美醜は自己評価の大きなポイントである、と私は思う。

容姿なんて自己評価と関係ないわ、という人もいるだろうが、私は違う。

人は、他者から容姿で判断されることが多い。

男も女も、それは同じである。

美しいか否かはもちろん、優しそうだとか明るそうだとか真面目そうだとか、人は相手の容姿を通してその内面まで勝手にイメージするからだ。

 

もちろん、顔の美醜だけでなく、体型もその人のイメージを大きく左右する。

どんなに几帳面で綺麗好きでも、太った人は怠惰に見られやすい。

じつのところ、私は自他ともに認める怠惰な人間なのだが、だからといって外見まで怠惰に見せる気はさらさらない。

怠惰であることは公言してるし、今さら隠すつもりもないが、だからといって外見が怠惰そうに思われていいわけではないのだ。

つまり私は「見た目が怠惰でなければ、内実が怠惰でも全然OK」という価値観の人間であり、他人に対してもその外見イメージを鵜呑みにしないようにしている。

自分も含め、人の外見というのは詐欺だと思っているからである。

 

人は自分の期待や予想が裏切られるのを嫌うから、「外見詐欺」に対してはかなり厳しい。

美容整形に対して批判的な人が多いのは、美容整形こそ外見詐欺の最たるものだからだ。

だが、外見を詐欺る者が悪いのではなく、外見から内面情報まで読めたつもりになっている自分が浅はかなだけではないか。

 

人間には、他の動物のような鋭い嗅覚も聴覚もない。

情報を得るのはもっぱら視覚からである。

視覚情報に過大に依存している分、その罠にも陥りやすい。

当たり前の話だが、我々の視覚は万能ではないのだ。

見落としもあれば、錯覚もあり、目では確認し得ないものもある。

なのに、私たちはいとも安易に視覚情報に左右される。

「外見詐欺」は、そのいい例だ。

それは相手の「詐欺」ではなく、あなたの「勝手な思い込み」に過ぎないのである。

 

そんなわけで、外見などどうせあてにならんにも拘らず、外見にまんまと騙されて勝手にいいイメージ持つ人が多いので、私は積極的に外見詐欺をやっている。

そんな私にとって、自分の不摂生ならともかく、薬の副作用なんかで肥満するのは耐えられないのである。

だが、そのせいで結局病気が再発し、担ぎ込まれた病院でステロイドの大量投与を受けているのだから、お笑い草だ。

死んでもいいやと思って薬の服用をやめたものの、またしても死に損なった。

目の前で呼吸困難になっている妻を見て夫が救急車を呼んだのは人として当然の行為だし、簡単に死ねると思っていた私が甘かったのだ。

 

病院のベッドに横たわりながら、私はしみじみと悟った。

心肺停止の時に、私は死ねるチャンスを逃してしまった。

もう二度と、あんなに簡単に死ねる幸運は舞い込まないだろう。

私はこれから、嫌々ながらも生きていくしかないのである。

あの時に、そう決まったのだ。

あの時に、私のウンザリするような余生が始まったのだ。

受け容れるしかない。

いや、「諦める」というべきか。

 

「受け容れる」と「諦める」は、似て非なるものである。

「受け容れる」には渋々ながらも肯定するというニュアンスがあるけど、「諦める」の方は肯定感が薄く挫折感の方が強い。

私は挫折したのだ。

生きることに挫折し、死ぬことにも挫折した。

諦めるしかない。

 

今までの私の人生は、「諦めない」人生だったように思う。

欲しい物はなんとしても手に入れようとしてきたし、諦めざるを得ない時でも、それを「挫折」とは捉えなかった。

「手に入らなかったけど、やるだけやってダメだったんだからしゃーない。気が済んだわ」という終わり方だったのだ。

だから、反省はしても後悔はしなかった。

 

しかし今回は、やるだけやったという達成感もないし、気が済んだわけでもない。

ただ「病気」という不測の事態に襲われて、不本意なまま為す術もなく翻弄された挙句にいろんなものを失った、という無念の思いしかないのだ。

だから受け容れられないし、諦め気分の奥底で不満がくすぶり続けている。

 

そう、私は不満なのだ。

これまでは何があっても「自己責任」と思えてきたが、病気になったことは「自己責任」だと思えない。

これが肺がんなら「まぁ、知っててタバコ吸ってたしね」と思えるけど、こんな病名も原因もはっきりわからない、しかも100万人にひとりというレアな病気になるなんて、予想外だったうえに不運としか言いようがない。

自分の責任でもないし、誰かのせいでもない……この状況が、私にとってすこぶる不満なのである。

同じ不運でも、「遺伝病」と言われた方が、まだ諦めがつく。

自分がこんな病気になった理由がわからないから、納得がいかないまま、ただただ悔しさだけが降り積もるのだ。

 

人間の人生の大半が運に支配されているのはわかっている。

基本、私たちは無力である。

だが、それがわかっていてもなお、自力で運命を作っていくという幻想を捨てられない。

考えてみれば、それこそが、私の一番の過ちであったのかもしれない。

私の人生は私が作る、という思い込みこそが。

まあ、そう思える人生を50代半ばまで送ってこれたのは、私が幸運であったからに他ならないとも言えるのだが。

 

幸運過ぎた私には、不運に対する耐性がなかった。

そういうことなのだ、きっと。

病室の天井を眺めながら、私が考えたのは、そんなことであった。

(つづく)

 

イラスト:トシダナルホ

 

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編集・構成 MOC(モック)編集部
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PROFILE

中村 うさぎ

1958年生まれ。エッセイスト。福岡県出身。
同志社大学文学部英文学科卒業。
1991年ライトノベルでデビュー。
以降エッセイストとして、買い物依存症やホストクラブ通い、整形美容、デリヘル勤務などの体験を書く。

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