人生100年時代を楽しむ、大人の生き方 Magazine

自立と孤立、依存と共存 中村うさぎ連載コラム 〜第44回〜

 

〜連載第44回〜

自立を目指して生きてきたら、いつの間にか孤立していた。

依存症に苦しんでたら、共存という新たな道が見えてきた。

これは、そんな私の半生の話です。

 

嫉妬は我々にとってきわめて日常的な感情である。

これまでの人生で一度も嫉妬を感じたことがないという人は、まずいないだろう。

いたとしたら、大変な嘘つきだ。

 

会ったこともない有名人を激しく憎み、ネットの掲示板で誹謗中傷して快感を得ている人たちの動機は、ほとんどが「嫉妬」である。

自分はこんなに惨めで苦しい思いをして生きているのに、他人が何の苦労もなく優雅に楽しく生きている(ように見える)のが悔しくて仕方ない。

まぁ、その気持ちはわからないでもないのだが、それにしても、だ。

身近な他者ならともかくも、自分から遥か遠く離れた世界で生きている相手に、何故あんなにも生々しい嫉妬の念を抱けるのだろう?

その人が自分から幸福を奪ったわけでもなければ、自分を蹴落として今の生活を手に入れたわけでもない。

実生活でまったく接点のない赤の他人なのだ。

なのに、どうしてそんなに悔しがるんだろう?

 

おそらく、彼ら彼女らの怒りの根底には「不公平だ」という気持ちがあるのだろう。

だが、この世に生きるすべての人たちがみんな等しく公平に幸福になれるはずなどあるわけない。

この世は基本的に「不公平」なのである。

賢い者と愚かな者、美しい者と醜い者との違いは、生れ落ちる前から遺伝子によってある程度定められているし、生育環境も我々は自分で選べない。

裕福で愛情深い家庭に生まれた者もいれば、貧しいうえに虐待されて育つ子もいる。

本人の責任ではないのに、理不尽な不幸に見舞われることなど日常茶飯事だ。

 

人間は平等であるべきだ、と、我々は学校で習う。

確かに「平等」は守られなければならない。

教育を受ける権利や機会均等など、法的な制度によって人為的に守るべき「平等」はある。

だが、人為的な平等には限界があり、人間の力ではどうしようもない不公平や不平等の方が圧倒的に多いのだ。

しかも学校は、その格差を努力で埋めるよう推奨する。

まるで努力さえすれば、人は誰でも平等に幸福を獲得することができるかのように。

そこから負けたり脱落したりする者は努力が足りなかったのだと言わんばかりに。

しかし、教育者とて知っているはずだ。

人間の努力で埋まる格差など、この世にはほとんどないということを。

努力を称揚するのはいいが、彼らは何故、諦める方法を教えないのだろう。

諦めてもらっては困ることでもあるのだろうか。

 

私は、いわゆる「諦めの悪い」タイプの人間だ。

自分はもっともっと上を目指せるはずだという気持ちを常に抱き、それが果たせないのは自分の努力不足か、あるいは誰かが私の分までうまい汁を吸っているからではないか、と考えてしまう。

幸い、私は本当に怠惰な人間なので、じつに簡単に「努力不足だな」と結論づけることができ、後者の「誰かがうまい汁を吸っている」説まで行きつかずに済んでいる。

だが、私より遥かに勤勉な人たちは、「こんなに努力してるのに」という不満を日々募らせていることだろう。

そして、その不満が「誰かがうまい汁を吸っている」という陰謀論的な疑念に繋がり、いかにもうまい汁を吸っていそうな他人に対する怒りに変わる。

そりゃ、ネット掲示板でこてんぱんに叩いてやりたくなるだろう。

だって人間は努力すれば等しく報われるはずなのに、不公平じゃないか!

 

そう、この世は不公平なのだ。

いい加減、みんな、それを認めたらどうだろう?

完全なる平等など、空想に過ぎないということを。

努力で埋まる格差も確かにあるが、埋まらない格差の方が多い。

だから、諦めることもまた、ひとつの「幸福への道」なのだ。

 

私は病気と加齢によって、「諦める」機会を貰ったと感じている。

身体が不自由だと、じつにいろいろなことを、渋々諦めなくてはならない。

おかげで、あんなに諦めの悪かった私に、すっかり諦め癖がついてしまった。

そして、ある日ふと、「諦められると、生きるのがめっちゃ楽じゃん!」と気づいたのである。

諦めるということ……それは、自分に過剰な期待をしなくなるということだ。

自分の肩をそっと叩いて「もういいよ」と言ってやれることだ。

たいして努力をしてこなかった私でさえ、その言葉を必要としていたのだから、私などよりずっと努力家の人たちは、そのひと言でどんなに楽になれるだろう。

もう自分を責めなくていいし、他人を羨む必要もないのだ。

そうなると、憑き物が落ちたように、嫉妬や不満の気持ちも消える。

本当に、氷が溶けるように、私を覆っていた何かがすうっと流れ落ちていくのだ。

 

どうしてあんなに他人を羨んだのだろう?

同業者に嫉妬し、負けまいと意地になり、肩ひじ張って生きてきた。

でも、予期せぬ病で、あっさり戦線から離脱する羽目になった。

誰が悪いわけでもない。

これはおそらく遺伝性の病気だし(私の父方の叔母が、やはり原因不明の神経の病で、晩年は伝い歩きをしていた)、努力云々でどうにかなる話ではない。

高いヒールで颯爽と街を歩いている女性を見ると羨ましくはあるが、以前のような悔しさは感じなくなった。

彼女たちだって、明日には何かの病や事故に遭い、歩けない身体になるかもしれないのだ。

我々の運命は誰にも予測がつかない。

我々は、幸運と不運を撚り合わせた細いロープの上を綱渡りで生きているのだ。

 

持って生まれた知性も美貌も才能も、「運」には勝てない。

ましてや努力など、「運」の前では紙切れ一枚ほどの重みもない。

そういう意味では、我々はじつに「平等」ではないか。

誰もが不平等で理不尽な「運」に振り回されて生きている、という逆説的な「平等」だ。

そして、最終的には、人は等しく「死ぬ」のである。

(つづく)

 

イラスト:トシダナルホ

 

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編集・構成 MOC(モック)編集部
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PROFILE

中村 うさぎ

1958年生まれ。エッセイスト。福岡県出身。
同志社大学文学部英文学科卒業。
1991年ライトノベルでデビュー。
以降エッセイストとして、買い物依存症やホストクラブ通い、整形美容、デリヘル勤務などの体験を書く。

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