〜連載第40回〜
自立を目指して生きてきたら、いつの間にか孤立していた。
依存症に苦しんでたら、共存という新たな道が見えてきた。
これは、そんな私の半生の話です。
認知症になって人柄が変わってしまった母を見て、最初のころは「母が人間でなくなっていく」と感じていた私だが、最近では彼女がむしろ「人間の根源」に近づいているのてせはないかと思うようになった。
所有への執着から生じる嫉妬や憎悪や疑心暗鬼は、今まで彼女の仮面の下に隠されていた本性なのだ。
彼女だけではない、すべての人間の仮面の下には、共通してこの「本性」がある。
文化や価値観や性癖の多様性を超えて普遍的なるものがあるとしたら、まさにそこであろう。
東洋人も西洋人も、資本主義者も共産主義者も、ゲイもノンケも、キリスト教徒もイスラム教徒も仏教徒も、すべて共通して持っているのが「所有への執着」である。
全世界のあらゆる思想、宗教、哲学が取り組んできたのは、ただひとつ、この「我欲=所有欲」の取り扱い方であったと言っても過言ではなかろう。
資本主義はそれを肯定し、共産主義はそれを否定して分配する道を選んだが、どちらも成功したとは言えない。
共産主義の分配システムは人間の所有欲に打ち勝てず、資本主義の自由競争は所有欲を果てしなくエスカレートさせた。
双方とも、最終的には、一部の者が所有を独占しするだけの歪な社会を作り上げただけである。
我々の根底に頑として居座る「所有の欲求」は、生半可な理屈やシステムでは、とてもじゃないが飼い慣らせない。
何故なら、それは「ナルシシズム」に起因しているからだ。
「所有」によって「私」が拡張していく快感……それは間違いなくナルシシズムの快感だ。
みんな、「私」が大好きなのだ。
「自分が嫌い」なんて言ってる若者も、じつは「自分好き」が高じて自己嫌悪に陥ってるだけである。
理想の自分になれない自分が嫌いなだけで、ただただ自分に高望みをしているに過ぎない。
自分にそんな高望みをするなんて、どんだけ自分を過信してるんだ。
自己嫌悪は自分好きの裏返しなのだ。
我々が死ぬまで逃れられないのは「ナルシシズム」である。
「私」という自我が生まれた瞬間、人は自分を愛し始める。
自分以外の他者を愛しているつもりでも、その根底にあるのはナルシシズムの快感だ。
誰かを愛する自分に恍惚とし、誰かに愛される自分に陶然と酔う。
他者はナルシシズムを満たすツールに過ぎない。
キリストは「汝の敵を愛せ」とか「人がその友のために自分の命を捨てること。
これよりも大きな愛はない」といった言葉で「ナルシシズムからの脱却」を諭した人物であるが、彼の教えを実践できる人間なんてそんなにいるわけがない。
仏教もまた「我を捨てよ」という言葉で「ナルシシズムからの脱却」を説くが、我を捨てられる人間なんてさらに少なかろう。
我々凡人にできるのは、ナルシシズムを自覚することくらいだ。
「ナルシストだね」と指摘すると「それは違う!」と反論する人がじつに多いのだが、どうしてみんな、ナルシシズムを躍起になって否定するのだろう?
ナルシストじゃない人間なんて、この世にいないのに。
「ナルシストだね」という指摘は「人間だね」という指摘とほぼ同じではないか。
なのに、みんな、必死でナルシシズムを否定する。
そうやって否定するから、いつまでたってもナルシシズムを自覚できず、自己正当化や自己欺瞞に無駄な労力を使ってしまうのだ。
「ナルシシズム」の語源は言うまでもなくギリシャ神話のナルシスであるから、たいていの人がナルシストとは鏡に映った自分にうっとりする自惚れ屋だと思っている。
だから「私は鏡に映った自分にうっとりなんかしないもん!」とムキになるのだろうが、もはやナルシシズムという言葉はそんなものを指してはいない。
フロイト以降、それは人間に内在する自己愛の快感を意味している。
フロイトはそれを性的なものとして位置付けたが、ナルシシズムの快感は性的なものとは限らず、我々のありとあらゆる欲望と快感の根底に根差している「私」という病なのである。
ギャンブルや消費といった行為に耽溺する「依存症」も、ナルシシズムの快感と密接につながっている。
一瞬でも、自分が大きく強くなったようなあの感覚を、私は決して忘れない。
シャネルのコートを買った時、私を満たしたのは紛れもなくナルシシズムの快感、「私」の拡張の快感であった。
その快感があまりにも強烈だったから、私はその行為に溺れたのである。
それは、恋愛に溺れる感覚と大差ない。
恋愛もまた大いにナルシシズムを満たしてくれるものであるから、人はそれに執着するのだ。
もうとっくに愛など消えて泥沼状態になっているのに、なかなか別れられないのは、私のシャネルと同様、最初の頃に味わった快感が楔のように心に打ち込まれているからだ。
相手に縋り付いているのではなく、恋愛の快感に縋り付いている。
恋愛によって得た「私」の拡張感に縋り付いているのである。
私もまた、シャネルに夢中になったのではなく、買い物という行為がもたらす自己拡張感に夢中になったのだ。
私はもっと広がりたい。
他者を飲み込み、世界を飲み込み、すべてを「私」で覆いつくしたい。
まるで神のように……そうだ、それが「神」なのだ。
この世界のすべてが神の一部であるのなら、私もこの世界のすべてを自分の一部にしたい。
そこでは私は、唯一にして全体であり、絶対的な存在となる。
そこには「孤独」なんかない。
だって、みんなが「私」なんだもの。
それは究極の「所有」である。
我々は「個」であることに強く固執する一方で、「孤」となることをひどく恐れる。
「個」でありながら「孤」を免れる究極の方法は、私という「個」が他者をすべて包括し、「一にして全、全にして一」の存在になることだ。
そこでは違う価値観による対立もなくなり、全員がひとつの価値観と世界観を共有する。
同時に、そこは「多様性」のない独裁的な全体主義の世界である。
「多様性」は「個」であることの欲求であり、そちらを選択すると我々は「全」の快感に浸れない。
すなわち、世界を所有できないのだ。
すべてを所有したいが、自分は誰にも所有されたくない。
この我儘な欲求こそが、我々の「本性」である。
人間の究極の目標は「神になること」だ。
「神」は我々の「所有欲」を体現した存在。
だからこそ人間は、あらゆる生物の中で唯一、「神」という概念を生み出し得た存在なのである。
「神」は我々の歪んだ鏡像なのだ。
(つづく)
イラスト:トシダナルホ
編集・構成 MOC(モック)編集部
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