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自立と孤立、依存と共存 中村うさぎ連載コラム 〜第43回〜

 

〜連載第43回〜

自立を目指して生きてきたら、いつの間にか孤立していた。

依存症に苦しんでたら、共存という新たな道が見えてきた。

これは、そんな私の半生の話です。

 

母はひとり娘である私を溺愛した。

だが、それはあくまで私が「自分の子供」だからであって、赤の他人であったとしたら私は彼女にとってもっとも憎むべきタイプの女であった。

要するに私に対する彼女の愛は「母性愛」のみで構成されていたわけだ。

 

「母親が自分の子を愛するのは当たり前でしょ。

今さら何を言ってるの?」

と思う人も多いだろうが、じつのところ、私は「母性愛」を「愛」だなんて思ってない。

それはナルシシズムの延長に過ぎず、非常に限局的な執着であり、他者への開かれた愛ではないと感じるからだ。

 

「母性愛」の本質が脳内に分泌されるオキシトシンであることは、広く知られている事実である。

「子育てホルモン」「親バカホルモン」と呼ばれるこの脳内物質は、特に授乳期の母親の脳内に大量に分泌され、我が子に対する強い保護欲と盲目的な美化を促すと同時に、圏外の他者に対してはきわめて排他的で攻撃的になるよう仕向ける。

母親が我が子に自己犠牲的な愛を捧げ、我が子を傷つけそうな存在に対してはもちろんのこと、そうではない近親者にまでしばしば攻撃的になったりするのは、すべてこのオキシトシンの作用である。

同時に、我が子に対してはどんなことも無条件に受け容れるので、その欠点が見えなくなったり実際以上に美化したりという、いわゆる「親バカ」状態になる。

人間の場合は、このオキシトシンが恋愛の時にも分泌されるので、「恋は盲目」「あばたもえくぼ」になるわけだ。

 

このような盲目的かつ排他的な愛は、我々の「ナルシシズム」と非常によく似ている。

我々は自分にはとことん甘く、他者には厳しい生き物だ。

自分のこととなると盲目的になり、自惚れたり無駄なプライドを何より優先したり、自分を守るためには容赦なく他者に牙を剥く。

ちょっとでも痛いところを突かれると、ムキになって理性を手放してしまうところもそっくりだ。

要するに「母性愛」などというものは、良くも悪くもナルシシズムと同類のものなのだ。

我々がライバルに勝って悦に入っている時や嫌いな人の不幸を見て舌なめずりをしている時の脳には、オキシトシンが大量に分泌されているのではないかと思う。

オキシトシンは「親バカホルモン」であるだけでなく「ナルシシズムホルモン」じゃないか、というのが私の素人仮説である。

 

世間はとかく「母性愛」を崇高なもののように称賛するが、その正体がナルシシズムだとしたら、そんなに見上げたものでもあるまい。

我が子や恋人を盲目的に愛するのは、その対象を「自分、もしくは自分の延長線上の存在」だと思っているからだ。他者として尊重しているわけでは、まったくない。

「愛」の定義は人それぞれであるから、自分の定義を押し付けるつもりは全然ないが、私にとっての「愛」とはこれと真逆のものである。

それは、自分とは違う他者を受け容れ、尊重し、排他的どころか「私」の外部に向かって広く開かれたものである。

いわゆる「博愛」とは、まさにそういうものではないか。

したがって、ナルシシズムの延長である母性愛など、私に言わせれば崇高でも何でもない。

ただの「自分大好き」が「自分の子大好き」になってるだけだ。

 

アメリカで大ヒットしている「ハイドメイズ・テイル~侍女の物語」というドラマを毎回観ているのだが、私はこのドラマのヒロインが好きではない。

奪われた我が子を取り戻すために他人を巻き込んでまで大騒ぎする彼女の気持ちにまったく共感できないからだ。

その子が虐待されているというのならまだわかるが、子供は裕福な他人の家で宝物のように大切に育てられているのである。

もし彼女がその子を奪い返したとしたら、その子は彼女とともに逃亡生活を送ることになり、今の環境よりはるかに過酷な日常を強いられる。

なのに、「私の子だから」といだけの理由で、ヒロインは周囲に無理難題を強要し、平気で他人を危険な目に遭わせようとする。

と、このような感想を述べたら、友人が「だって、自分の子なんだから当たり前でしょ。

母親だもん」と言ったので、「ああ、この人も無条件に母性愛を肯定してるのか」と、内心驚いた。

驚いたけど、まぁ、私よりも友人の方が世間一般のマジョリティ的感覚だろうなと思ったので、特に反論もしなかった。

 

だが、「母性愛」が「ナルシシズム」と同様のものだと考えたら、それを無条件に肯定するのはかなり危険だと感じる。

特にその「排他性」……

「ハイドメイズ・テイル」のヒロインのように自分と我が子だけがこの世でもっとも大切で、他の人間は「敵か味方」のどっちかに単純化され、のみならず味方の他者さえ道具のように利用するようなメンタリティを「愛」として無条件に認定してしまうと、「愛」の名のもとにいかなる行為も正当化されそうで嫌なのだ。

たとえば「愛国心」とかね。国を愛する心を非難する気はないが、「愛」とは他国(他者)への攻撃を称揚するものではないと思うからだ。

だが、母性愛の排他性は、一部の人の愛国心の排他性と酷似している。

我が子(我が国)にとって脅威となる他者(他国)は、これを全力で排斥すべきである、という情緒。

しかも、まるでそれが正義であるかのような勘違い。

どちらも、我が子や我が国を「私」の延長物として捉えているからこそ、このような心情になるのであり、要するにこれは「ナルシシズム」の投影に他ならない。

 

私は自分の母に対してきわめて冷淡ではあるが、決して憎んでいるわけではない。

母が病気になったらとりあえずは心配するし、認知症に苦しんでいる姿を見ているとしのびない気持ちになる。

せめて穏やかで幸福な余生を送って欲しいものだと心から願っている。

ただ、彼女が私に惜しみなく与えた愛は、「母性愛」という美名のもとに正当化された彼女のナルシシズムであり、彼女が私を「自我の延長の存在」すなわち「自分の所属物」と思っていたことを手放しでありがたがる気持ちには到底なれないのだ。

親のことをこのように突き放して書くと世間から顰蹙を浴びるのは承知だが、どうか「親不孝」とか「恩知らず」とかいった固定観念から一歩離れて、客観的に考えて欲しい。

「母性愛」なんて、そんなに崇高なものなのか、と。

(つづく)

 

イラスト:トシダナルホ

 

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編集・構成 MOC(モック)編集部
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PROFILE

中村 うさぎ

1958年生まれ。エッセイスト。福岡県出身。
同志社大学文学部英文学科卒業。
1991年ライトノベルでデビュー。
以降エッセイストとして、買い物依存症やホストクラブ通い、整形美容、デリヘル勤務などの体験を書く。

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