恋のあとさき ~大輔の場合【2】〜
人はどうして不倫という名の恋に落ちるのか、そしてその恋はどういう展開をたどるのか。女性たちの気持ちは、そして男性たちの心は……。実話をベースにした不倫小説をお送りします。
娘の佳奈に、家出した妻の容子からメールがあった。
「どうするのよ、おとうさん」
佳奈が恨みがましい口調で言う。
「おとうさんには心あたりがないよ」
「私、ときどきメールしてみる。だからおとうさん、早まらないでよ」
早まるなとはどういう意味か。娘はオレが自殺でもすると思っているのか。そのとき大輔はそう思った。
だが時間がたつにつれ、容子がひとりでいるわけではないと薄々わかってきた。始まりは近所の奥さんたちの噂だった。
すっかり気持ちが落ち込んで休職した大輔が病院に行こうと家を出ると、近所の奥さん数人が大輔の自宅を見ながら話しているのに遭遇した。
「ねえ、高田さん」
そのうちのひとりが話しかけてくる。別の女性が制しようとしたが、その奥さんは内緒話でもするように口を押さえながら続けた。
「お宅の奥さん、若い男性と一緒にいなくなったって噂よ……。そういえば私もね、3つ先の駅前の歯医者に通ってるんだけど、お宅の奥さんと若い男性が一緒に歩いているのを見たの」
「誰だろう、甥っ子ですかね」
「いえ、だってふたり、ラブホテルに入って行ったのよ。親戚じゃないでしょ」
「やめなさいよ」
他の女性が言ったが、誰もが興味津々であることは雰囲気からわかる。大輔は黙ってその場を去った。
そのとき思い出したのだ。容子が真顔で「相談したいことがある」と言った日のことを。あのとき容子は迷っていたのではなかったか。夫である自分とじっくり話して、自分の迷いを消したかったのかもしれない。もちろん不倫していることを話そうとしたわけではなく、ただ夫の愛情を確認したかったのではないか。
あの日、仕事とはいえ遅くなったことで、容子は細くつながっていた夫への愛情が一気に切れたのを確認したのだ、おそらく。容子にとって、別の日ではだめだったのだ。あの日でなければ。
大輔は大きなため息をついた。「妻にするなら容子」だと信じていた。実際、大輔が望んだとおりの妻だった。家庭的で貞淑で……。そんな顔の裏で、妻が若い男と不倫をしていたのか。妻の裏切りそのものもショックだったが、家庭的で貞淑で、絶対自分を裏切らないと思い込んでいた自分の目が節穴だったことも衝撃だった。妻への怒りよりも、どうしてそんなことになったのかが不思議でたまらなかった。
浮気はしたけど家庭に影響はなかったはず……
振り返れば大輔は、結婚後も女性が途切れなかった。長い間、つきあうわけではない。だがきれいな女性がいれば目がいく、素敵な女性がいれば近づきたいと思う。それがオトコの本能だと思っていた。
実際、容子に何度か疑われたこともある。容子はそういうとき、ストレートには言わない。「あなた、これ」
ある日、目の前に出されたのは真っ赤な口紅がついた白っぽい大輔のトランクスだ。
「いやあ、接待でキャバクラに連れていかれてさ。向こうの会社の社長にけしかけられたんだよ、断れないだろ」
「そう、大変ね」
容子はそう言って洗面所のほうへ行ってしまった。うまく切り抜けたと思ったっけ。
また、別のときにはバッグに入れておいたコンドームの箱がなくなっていることもあった。容子は嫉妬を表に出さないが、ときどきそういうことをした。彼女なりの浮気防止策だったのかもしれない。そんな妻の気持ちを大輔は汲み取ることができなかった。
ここ2年ほど、大輔は仕事で知り合った恵利とつきあっていた。5歳年下の彼女はフリーランスでデザイン関係の仕事をしており、シングルマザーだ。夫の暴力に耐えかねて離婚したという。そんな過去がありながら恵利はいつも明るく、今の自由を謳歌していた。ひとり息子は大学生だから、大輔が「会いたい」といえば恵利は時間の都合をつけてくれた。
「大輔さんは、そうやって自由に浮気をしているようで、実際には職場にも家庭にも縛られてるよね」
恵利にそう言われたことがある。図星だった。大輔はわかっていた。オトコの本能だの甲斐性だのと思いつつ、やはり自分が常に縛られて常識外の行動をとれないことに。
「でもいいのよ、あなたはそれで。枠があるから才能を発揮できるタイプだと思う」
そんなふうにずばずばモノを言う恵利に、大輔は今までにない新鮮な刺激を覚えていた。これは単なる浮気ではない。恵利を自分だけのものにしたい。そんな欲求が体の奥からわいてきた。
「私は誰のものでもないわよ。女は男の所有物じゃないの。私は私」
恵利はいつもそう言った。そんな恵利に魅力を感じながら、大輔は妻の容子を自分の所有物のように扱っていたことに気づいていない。
浮気はしていたが、そして恵利には本気になっていたが、それでも家庭を壊すようなことはしていない。だから容子に文句を言われる筋合いはない。それが大輔の考え方だった。
妻が出て行ったあと、恵利にもそのことを話した。恵利はしばらく考えてから言った。
「大輔さん、奥さんのこと大事にしてなかったでしょ」
浮気はともかく、暴力をふるったこともないし借金もない。家庭にはきちんと給料を入れている。子どものことは妻任せにしていたが、休みの日には子どもたちと話すようにしている。何が問題なのかと大輔は恵利に問いかけた。
「奥さん、寂しかったんだろうな。女として見られてなくて」
恵利はずばりとそう言った。妻を女として見る……。大輔は今ひとつピンとこないまま、恵利を押し倒した。
恵利の体から女の匂いが漂う。容子にはない、大輔のオトコを刺激する匂いだった。
いったい、妻は誰と駆け落ちしたのか
容子が出て行って1ヶ月もたたないうちに、大輔は地方でひとり暮らしをしている母親に助けを求めた。いつまでも娘の佳奈に家のことを全部やらせるわけにはいかない。幸い、母親は73歳だが元気だ。あらましを話すと、母は新幹線に乗ってやってきた。
「どういうことなの、容子さんが出て行ったって」
「詳しいことはわからないんだ。とにかく家のことを手伝ってもらいたくて」
母は息子の精神科の薬袋を見て、何も言わなくなった。佳奈が買い出してきた食材で料理をしはじめた。懐かしい母の煮物を口にしたとき、大輔は子どもの頃を思い出して涙が出そうになった。自分の人生、どこで間違ってしまったのだろうか。
休職して2ヶ月半、同期の安西秀夫と会ってから1週間後、大輔はようやく職場に復帰した。妻が誰と一緒なのか、どういう結末になるのかはまだまったくわからない。ただ、いつまでも休職していられなかったし、仕事への意欲は戻ってきていた。誰に何を言われてもかまわない。淡々と仕事をしようと大輔は決めていた。
「おう、出てきたか」
秀夫に真っ先に声をかけられた。部署は違うが同じフロアなので、大輔が入ってくるのをとらえたのだろう。
部長や部署の仲間たちに挨拶をし、秀夫は自分の席に座った。こんなに長い間、仕事から離れていたのは初めてだ。秀夫の仕事を引き継いでくれていた同僚たちから進捗状況を聞き、仕事にとりかかる。
仕事に没頭していれば現実を忘れられる。帰りに同僚と軽く一杯という習慣もすぐに復活した。だが、家に一歩入ると、妻がいない現実を突きつけられる。仕事に復帰してしばらたくたったころ、母親がしみじみと言った。
「このままでいいの? 私だってそろそろ帰りたいよ。あっちに友だちもいるしね。いつまでも私に頼らないでほしいのよ」
大輔はハッとした。母親は息子と孫と暮らせるから満足なのではないかと思っていたのだ。母には母の暮らしや人生があるのだった。
「あんたも本腰据えて、容子さんを探したほうがいいんじゃない?」
母の目は真剣だった。そういえば母は今まで容子が失踪したことで、ひと言も文句を言っていない。嫁が駆け落ちしたのに、その嫁の悪口ひとつ言わないとはどういうことなのか。
「私はあんたが容子さんを追いやったんだと思ってるよ」
母のひと言が大輔の胸を抉った。
(つづく)
イラスト:アイバカヨ
編集・構成 MOC(モック)編集部
人生100年時代を生きる、
大人のためのマガジンMOC(モック)
Moment Of Choice-MOC.STYLE