恋のあとさき ~大輔の場合【1】〜
人はどうして不倫という名の恋に落ちるのか、そしてその恋はどういう展開をたどるのか。
女性たちの気持ちは、そして男性たちの心は……。
実話をベースにした不倫小説をお送りします。
高田大輔は居酒屋でお茶を手に、ぼんやりと座っていた。
久しぶりに同期の安西秀夫から連絡があり、ふと会う気になったのだ。
「遅くなってごめん」
秀夫が外の風を連れて入ってきた。
彼はいつでも生気に満ちあふれている。
大学を出て入社したとき、真っ先に目に入ったのが秀夫だった。
自分の将来を期待して、彼の体からキラキラしたものが発散されているように見えたのだ。
「どうしてる、大丈夫か、顔色いいぞ」
座るなり秀夫は立て続けに言う。
大輔の答を待たずに「生ビールください」と大声で注文した。
「あれ、おまえは? 酒はダメなのか」
「うん、ちょっと薬を飲んでいるからね」
やっと大輔は言葉を発した。
ビールが来ると、秀夫は大輔の目の前に軽く掲げた。
「とにかく会えてうれしいよ。
それだけだよ」
ぐいっと一口、気持ちよさそうに飲んだ。
「いいなあ、おまえは。
いつも楽しそうで」
同期のよしみで本音がぽろりとこぼれる。
秀夫はちらっと大輔を見ながらまた一口飲み、笑顔になった。
「まあさ、オレなんて何も言えないけどさ」
こういうところは昔から不器用な男なのだ。
慰めや励ましの言葉をするりと言えるほど、秀夫は厚顔ではない。
「沙織さんは? 元気か」
互いに家には行き来していないので、大輔は秀夫の結婚式で沙織を見ただけだ。
だが、ふたりはよく家庭の話もしあっていた。
「元気だよ。
子どもたちも元気。
最近、沙織は明るくなったなあ。
子どもたちに手がかからなくなってきたからかな。
もっとも下の娘は今度、受験だからちょっと神経質になっているところはあるけどね」
秀夫は大輔の身に起こったことに触れてこない。
それを聞きたくて連絡してきたわけではないことは、大輔もじゅうぶん承知していた。
秀夫は大輔に電話してきて、「顔を見たい」と言った。
そこにウソはないだろう。
「オレもようやくおまえに会える程度には回復したよ」
秀夫はそれを聞いてニヤリと笑った。
「おまえらしい言い方だな。
もう大丈夫と見たよ」
「しかしひどい目にあった」
妻の変化に気づかなかった夫
大輔は容子と結婚して25年たつ。
大学の同級生で、入学してからずっとつきあっていたので、就職して2年たったところで結婚に踏み切った。
結婚するなら容子だと決めていたのだ。
容子にとって大輔は初めてのオトコだ。
そして大輔以外は知らない。
彼は、容子の前にも、つきあっているときも女性はいた。
だが、結婚するには容子がいちばんだと思っていた。
当時、秀夫に聞かれたことがある。
「なぜこんなに早く結婚するんだよ。
これから独身生活をもっと楽しんでからでもいいんじゃないか」と。
そのときは、19歳からずっとつきあっているのだから、あまり待たせたらかわいそうだろと答えた記憶がある。
だが本当は違う。
結婚して早く家庭をととのえたかった。
つまり家のことは誰かに任せて仕事に集中したかった。
そしていつでも自分の思い通りになる「オンナ」を家に置いておきたかった。
恋愛は外ですればいいのだ、結婚後は。
容子は落ち着いたしっかりした女性だった。
周りの女子学生たちと比べても、常に冷静で感情的にならず、穏やかだった。
大輔はそこに惚れたのだ。
一緒にいて、特に楽しいわけではなかったが、仕事で疲れて家庭に帰ったときに穏やかに迎えてくれることだけは確かだと思っていた。
そしてその通りの家庭生活だった。
ただ、ひとつだけ思い通りにならなかったのは子どもだった。
結婚して5年目にやっとひとり女の子を授かり、そのあとまた間があいて37歳のとき双子の男の子が生まれた。
容子は、時期によってパートで働いたりしながら、ほぼひとりで子どもを育てていた。
大輔は実際、仕事で忙殺されていたし、仕事が終われば一杯飲んでいたので、平日は子どものめんどうなど見たことがない。
容子は、そんな大輔に文句ひとつ言ったことがなかった。
「妻にするなら容子」は正しかったのだ。
今思えばだが、そういえば半年ほど前から、どこか容子の様子がおかしかったような気がすると大輔は振り返る。
あの冷静な容子が、双子の息子たちに金切り声を上げることがあった。
「どうしたんだよ」
大輔が咎めるように言うと、容子はハッと我に返る。
そんなことが多々あった。
いつも心ここにあらずだったのかもしれない。
3ヶ月ほど前、容子が改まって「相談したいことがあるから、今日は早く帰ってきて」と朝、言ったことがある。
結婚してからそんなことを言われたのは初めてだった。
「わかった。今聞いたほうがよければ、ざっくりあらましだけ教えてくれない?」
そう言うと、容子は首を横に振った。
「いいの、夜ゆっくり話したいから」
それなのに、大輔はその晩、取引先につかまって午前様になった。
途中で容子に<ごめん、仕事がらみの接待で遅くなる>とメッセージを送った。
<大丈夫、明日でいいから>と返事は来たのだが、容子はそれ以降、何も言わなくなった。
「あのときの相談って何だったんだよ」
大輔がいくら聞いても、容子は「たいしたことじゃないのよ、もう解決したから」と言うばかりだった。
食い下がると、「実家のことよ」とさりげなく言った。
容子の実家は、高齢の両親と弟一家が最近、同居したばかりだから、何か軽い揉めごとでもあったのだろうと大輔は察し、それ以上は聞くのを控えた。
夫婦といえども、互いの実家の話題にはどうしても遠慮がある。
そして2ヶ月前、いつものように仕事に出かけて、いつもより早めに帰宅してみると、大学生の娘の佳奈が、中学生になったばかりの双子の弟たち、亮と勇に食事を作っていた。
「おかあさんは?」
夜、容子が出かけることはほとんどなかった。
少なくとも大輔の記憶にはない。万が一、そんなことがあったとしても、容子が食事の支度もせずに出かけるはずはなかった。
「わからない。
私が帰ってきたらおかあさん、いなかったのよ」
イヤな予感がした。
夫婦の寝室に入ってみると、ツインベッドの大輔の枕の上に手紙があった。
封を切ろうとして手が震え、思わず深呼吸をしたのを覚えている。
前の晩、大輔は珍しく容子を自分のベッドに押し倒した。
容子は何も言わず、大輔の目をじっと見つめた。
「あなた……、私のこと愛してる?」
消え入りそうな声で容子はそう言った。
手紙を読み始めた大輔の顔が歪む。
容子は几帳面な字で、しばらくひとりになって生き方を考えたいと書いていた。
昨夜、容子に愛しているかと聞かれて、大輔ははっきり答えなかった。
容子の胸をまさぐりながら、「何だよ、今ごろ、どうした」というようなことを言ったのではなかったか。
そしてそのまま自分の欲望を遂げると、すぐに眠ってしまったのだ。
あのとき、愛している、容子がいなかったら生きていけないと言えばよかったのか。
そうすればいつもと変わりない日常が今日も存在していたのか。
リビングに戻ると、子どもたちが夕食をとっている。
「おとうさんも食べるでしょ。
おかあさんみたいにうまく作れないけど」
佳奈が立ち上がってご飯をよそってくれた。
「おかあさん、どこに行ったの」
亮がふてくされたように言った。
「知らないわよ、私だって」
「警察に届けたほうがいいかな」
大輔がつぶやく。
そのとき佳奈の携帯が鳴った。
メッセージが届いたようだ。
「おかあさん、しばらく家出するって」
携帯を見ていた佳奈がぼそっと言った。
(つづく)
イラスト:アイバカヨ
編集・構成 MOC(モック)編集部
人生100年時代を楽しむ、
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