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笠谷和比古氏が語る「徳川家康の謎と素顔②」〜征夷大将軍と権威の関係〜

 

歴史家の笠谷和比古先生が徳川家康の意外な真実に迫っていくシリーズ。

今回は「征夷大将軍」の実質的な意味合いについて探ります。

 

 

「関ヶ原の戦い」で勝利を収めた家康ですが、そのあとの天下獲りはどうだったのでしょうか。

 

旧来は、家康は関ヶ原で勝利を収めて天下人になって、豊臣家と秀頼は摂津・河内・和泉三ヶ国65万石の一大名に転落したという形で捉えてきました。

3年後に家康が就いた征夷大将軍は、家康の天下人の実質を制度として整序したものとして考えられてきたわけです。

しかしながら、このような理解に大きな誤りがありました。

関ヶ原合戦後においてもなお秀頼の地位が依然として家康の上位にあるというのは、いくつかの事実で証明されます。

そして家康が征夷大将軍になるというのは、そのような豊臣家の権威から離脱をするという戦略的な行動であったことを意味していたのです。

 

 

 “盃”を前に向き合った淀と家康

そのときまでは、まだ豊臣家の権威下から逃れられなかったと。

 

関ヶ原合戦の後の家康も、一番の実力者ではあるけれど、その権限は秀頼の代行者としていろいろな仕切りをやっているまでであって、実は家康自前の政権というものはなかったのです。

徳川は依然として豊臣家の一大老たる家老の地位に留まっているのです。

例えば、関ヶ原合戦の後に家康と淀殿の間に和解の盃事がありました。

淀殿は非常に賢明な人でね、彼女は三奉行のように家康に敵対することを書いた証拠文章は一切残していなかったのです。

 

 

万が一のことを慮ってですね、中立のような形を取っていました。

三奉行は家康に対する宣戦布告状のようなものを出していますから、戦犯であるとされてしまったのですが、淀殿は三成たちに拉致監禁をされていたので今回のことは知らないという言い訳が立つようにしていたのです。

家康も本当のところは分かっているのですけれど、あえて咎め立てしないということで和解という形で収めることにしたのですね。

 

 

大阪城で和睦の盃事というのをやるのですが、この時の座順が問題になります。

淀殿が上座だったのです。

だから淀殿が最初の盃を飲んで、その次が家康にいくという流れになるわけです。

家康が飲んだ後、淀殿は「秀頼に杯を回してください」と言うのです。

秀頼は自分の横にいるわけですけどね。

家康は恐れ多いからそれを辞退したい、主君に対して自分の盃を回すのは失礼ですからと固辞したのです。

だけど、淀殿は是非回してくださいと言って、その盃を秀頼が飲むように仕向けたのです。

その時に満座の人に聞こえるように、「これからは家康殿のことを父、太閤殿下同然に思わなければなりませんよ」と秀頼に諭したのです。

そういう、お互いを立てた関係だったわけです。

 

 

旧説で家康が秀頼の上に立ったとされた謎

旧来は、そんな家康が、淀殿よりも上の立場になったと言われてきたのはどういう経緯だったのですか?

 

淀殿が三成に加担したということで旧来は説明してきたわけです。

だから秀頼が一大名に転落したという形で、従って淀殿も一大名の母親という形に転落したと旧来は説明してきたわけです。

旧来の説明は石田三成=豊臣なのです。

関ヶ原合戦を豊臣対徳川という図式で捉えてしまっている。

それで家康が勝って豊臣が負けたから、家康が覇権を求めて、豊臣は一大名に転落したという図式でやっているけど、私の見立てだとそうではなくて、豊臣政権の内部分裂だったという捉え方です。

それに家康の天下取りが複合的に絡むという、こういう形で関ヶ原合戦を捉えますと、関ヶ原合戦後の世界の姿が全く違う形になっていきます。

実は淀殿と豊臣家の政治体制は依然として持続していた。

これを当時の人は「太閤様、御置目(おきめ)の如く」と言っています。

「置目」とは掟の意であり、秀吉が定めた政治秩序の通り、関ヶ原合戦の後も持続しますよと。

これは豊臣が言っているのではなくて、徳川武将の井伊直政と本多忠勝の手紙の中で出てくる言葉なのです。

 

 

このことを証明する伊達政宗の直筆の面白い手紙があります。

これは家康の側近の今井宗薫に宛てて、これは当然、家康に伝わるように言っているわけで、内容は「いかに太閤様御子であろうと、日本の統治ができるような力量がないと家康様が見定めたときには、二、三ヶ国を領有する一大名されるのがよろしいのではないか」。

これは、秀頼をどうするかということを言っているわけです。

 

 

秀頼はいかに秀吉のお子であろうとも天下を統一するような力量でないと判断された場合には、一大名という形で過ごされるのがよろしいのではないですか、と。

これは関ヶ原合戦の後に言っていることです。

もし秀頼が一大名に転落していたのなら、こんな手紙が出るはずがないでしょう。

つまり秀頼は成人したあかつきには天下を統治する存在だということは、当時の武将たちにとって当たり前のことだったということです。

ところが伊達政宗はそれはまずいんじゃないかと。

彼は暗に、あなたが天下人になればよろしいと。

秀頼様は一大名という形で過ごされるということが秀頼様のためにも、豊臣家のためにとっても安泰でそちらのほうがよろしいのではないか、そのようにされてはどうですかと家康に勧めているわけです。

ということは、現状はそうではないということを意味するのですね。

だから秀頼がもし成人して天下を統治する立場になったら、家康は、その政務代行権が消失して単なる一家老の地位になるわけでしょう。

 



そしたら関ヶ原合戦に何のために勝ったのか分からないじゃないですか。

自ら頂点になろうとすると、この仕組みを崩さないといけない。

でもこれは明智光秀の二の舞ですから、よろしくない。

どうするか考えた結果、この豊臣体制から離脱をするのです。

離脱をして、自分を頂点とする新たな政治体制を構築するのです。

なぜ離脱ができるのか。

天皇から征夷大将軍に任官してもらうことによって、離脱をして自前の政権が立てられる。

征夷大将軍という名目を正当性の根拠として、そして自前の武家政権をたてる。

これがつまり家康の天下取りの政略だったのです

 

 

関白対征夷大将軍

豊臣の持つ「関白」の地位に対抗しているということでしょうか。

 

豊臣と相対化するわけですね。

豊臣は関白という形で持続するわけですが、これを相対化して征夷大将軍に任官することによって武家支配を作り上げるということです。

これこそ実はクーデターなのですよ。

でもこの征夷大将軍という名前に囚われてしまって幻惑されてしまうのです。

今の研究者も幻惑されているし、当時の人々も幻惑されている。

乗っ取りクーデターには見えないわけですよ。

つまりそこに天皇制の魅力というものがあるわけですね。

これは単に彼が離脱をして、さあ俺のところにみんな集まれって言ったら、これは誰が考えてもクーデター、乗っ取りになるでしょ。

ところが征夷大将軍に任官された。

 

 

これはしょうがない、従わざるをえないっていうのが自動的に出てくるわけですね。

つまりここに単なる名前であるにもかかわらず、大きな政治的パワーがあるわけです。

そしてそのパワーを与えるのが天皇制です。

だから天皇制が持続するのですよ。

単に名前を与えるだけで、巨大なパワーが与えられる。

クーデター、乗っ取りを完全に隠蔽してしまう効果を持つわけです。

 

 

この家康のとった行動との比較で言うと、やや旧聞に属しますが、近年では竹下登が同じことをしました。

当時、ロッキード事件の被告で闇将軍と呼ばれていた田中角栄が「木曜クラブ」という派閥で120人くらいの部下を持っていたのですが、闇将軍ではなくて総理総裁を立てたいと思っている派閥の人間は、角栄にそろそろ跡目を誰かに譲ってくれっていうんだけど、120人持っていることが彼のパワーだから譲りません。

派閥内で芽が出そうな奴は全部潰すという話だったのです。

そこで橋本龍太郎、羽田孜、小渕恵三、小沢一郎といった面々がクーデターを画策して竹下登を担いで離脱をして「経世会」を作ったのです。

つまりこれは乗っ取りなのですよ。

実際、当時も竹下に対して「明智屋」なんていう揶揄が投げかけられていました。

家康が取った戦略は、この竹下のそれと同型なのです。

しかし家康の場合は、同じように離脱をしても誰にも乗っ取りとは見えない。

乗っ取りを見せないところに征夷大将軍の権威というものがあってみんなそれに幻惑されて、家康の地位を確かなものにしてしまいました。

 

魔法のような工作によって行われた徳川家康の天下取り。

次回はそんな家康の外交政策にメスを入れます!

 

 

写真:田形千紘 文:安藤紀子



 

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編集・構成 MOC(モック)編集部
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PROFILE

笠谷 和比古

1973年3月、京都大学文学部史学科卒業。
1996年4月、国際日本文化研究センター研究部教授  総合研究大学院大学教授兼任。
2015年3月、定年退職 国際日本文化研究センター名誉教授・総合研究大学院大学名誉教授。
この間、ドイツ・チュービンゲン大学、ベルリン大学、中国・北京外国語学院、ベルギー・ルーヴァン・カトリック大学、フランス・パリ大学東洋言語学院などの客員教授を歴任。 現在、桃山学院大学客員教授
NHK人間講座「武士道の思想」の講師(2002年)。NHK「その時、歴史が動いた」(2005年8月、2006年11月など)や「BS歴史館」(2011年12月、2012年9月) などにもゲストコメンテーターとして出演。 
また社会的活動として、伝統技術を生かした物作り、自然と融和した街づくり、伝統文化の現代的展開を目指す舞台芸術、武士道に基づく人格の陶冶といった実践的研究に取り組んでいる。

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