歴史家の笠谷和比古先生が徳川家康の意外な真実に迫っていくシリーズ。今回は家康の意外な外交手腕について語ります。
──徳川幕府といえば「鎖国」です。幕府を開いた家康も、外交には否定的だったんでしょうね。
一般的なイメージは、織田信長、豊臣秀吉は国際派、徳川家康は内向きで鎖国というイメージがありますが、家康に関してはこのことは間違いで、家康はかなりの国際派です。
前近代において最も国際的な時代が家康の時代なのです。家康が自ら国交を開き、かつ関係を取り持った国は10ヵ国くらいに及ぶのです。これは前近代の中ではナンバーワンなのです。明治の初年でも英米仏蘭露の5ヵ国と、それに続くベルギーやプロイセンなどを併せても10ヵ国に行くか行かないかですが、家康が政権を掌握していた時代はそれ以上で、関ヶ原合戦の1600年から大坂の陣があった1615年のこの15年間が前近代で最も国際的な時代なのです。
秀吉の戦後処理から始まった国交
──1600年から1615年までが前近代で最も国際的な時代だったというのは、一般にあまり知られていないと思います。
家康の外交は秀吉が行った文禄・慶長の役の後始末から始まります。
文禄・慶長の役では秀吉が亡くなったことを契機に全面撤兵しますが、まだ戦争状態は続いているわけです。それに対して朝鮮側から、日本側に拉致された捕虜の返還を求めるために松雲大師というお坊さんでかつ軍人という人が日本にやって来ます。対馬にやって来た松雲大師に対して、対馬の宗氏が「今、都では徳川家康が征夷大将軍になりました。彼と相談すれば話は進むから、彼のいる京都に行きなさい」と教えて、松雲大師は京都に向かったのですね。家康もこの問題を解決したいと考えていたから、両者の間に講和条約が成り立つのですね。もちろん捕虜は全部返還するという。そして日本と朝鮮の間で国書の交換をしましょうという話になって、これが後に朝鮮通信使という形になっていくのです。だから朝鮮通信使の制度を生んだのが家康なのですね。一番最初に形になったのは、朝鮮外交でした。中国に関しては、結局、国交は回復できなかったのです。家康は実は中国との交易を求めたんだけど中国側は、中国に来る国々は必ず中国年号を使わないといけないという年号問題などがあって、朝貢貿易の形にしなければ貿易はできないというのが中国側の立場なので、結局、家康は中国との国交は断念します。ただ中国商船は私的な貿易という形で長崎へ来ますからね、だから中国船は政経分離という形で中国とはその後ずっと幕末に至るまで関係を取り持っていきます。東南アジアとの関係は、かの朱印船貿易ですが、朱印船貿易の制度を創ったのは実は家康です。一般には秀吉の制度のように誤解されていますが、家康なのです。家康はどうしても東南アジアと貿易をしたい理由があって……。これは次回に話を譲りますが、家康は貿易に関しては政治的な禁令を敷いていませんでした。むしろたいへん積極的だったのです。中国、朝鮮、東南アジア。次はヨーロッパ関係です。
ポルトガル貿易を阻んだもの
──当時のヨーロッパで勢いのあったのが、スペイン、ポルトガルですね、
そう、貿易相手としても当然スペイン、ポルトガルが挙げられます。一番最初にポルトガルがやって来ましたが、これは家康にとって大きな問題になりました。
ポルトガル船というものは、九州に到着して、そこから瀬戸内海を通って、堺まで来るわけですが、そこから先、ポルトガル船は東へ進められないのです。大坂までは来れるんだけれども、そこから紀州灘、遠州灘と、太平洋の荒波がまともにぶつかってくる難所続きで、遭難の危険が大変に高い。瀬戸内は内海ですから通れますが、太平洋は行けない。そうするとポルトガル船っていうのは泉州の堺で止まりになってしまうのです。と、いうことはつまりヨーロッパ文明は上方で止まってしまって、家康や仙台の伊達政宗などの、東日本の太平洋岸地域までには及ばないという話になるわけです。
ポルトガルとは駄目だという話になって、何とかほかのヨーロッパの諸国を江戸に呼ぶ手立てがないだろうかといったときに、これに応じることができたのはスペインでした。一般にはポルトガルとスペインはキリスト教・カトリック(旧教)国として一緒にして考えられていますが、家康や政宗らにとっては、この二つは大きく異なっていたのです。
スペインがポルトガルを出し抜けた理由
──日本にとってはどちらも同じような立場の国だと思いますが……。違いがあるのでしょうか。
両者の地球規模での縄張りと航路に関係しているのです。ローマ法皇の裁定による世界分割協定に基づいて、ポルトガルはヨーロッパから始まる東回り航路でアジアに来るのです。それに対してスペインは西回りでアジアに到達します。スペインはアメリカ大陸を経て、太平洋を赤道に沿ってフィリピンに至るという航路を開拓してアジアにやってきました。そして、フィリピンからは黒潮に乗って北上して、ちょうど江戸の外洋の辺りで偏西風に乗っかって太平洋を東へ航海し、そしてメキシコのアカプルコにもどって行くのです。
メキシコはスペインの重要拠点で、ノバ・イスパニア(ノビスパン)と呼ばれていました。アカプルコがその首都でした。つまりスペインはアカプルコを基点として、こういう大きな楕円状の太平洋海路を開発していたのですが、それに家康が着目したということです。スペイン船は江戸に入港できるのです。
家康はスペイン貿易を考えていて、スペインの側も日本貿易に対して非常に関心がありました。日本はマルコポーロ以来、黄金の国であるという認識ですからね。実際、当時の日本は銀の産出量では世界屈指のものでした。
初めて太平洋横断に成功した日本人
──家康はスペインとの貿易を考えたのですね。
その頃、たまたま京都に田中勝介という貿易家がいました。田中は太平洋貿易をやりたいと考えていたのです。その頃の日本人はスケールが大きいというか、冒険心に富んでいることに感動を覚えます。
しかし太平洋横断航海となると、東南アジアを対象とする朱印船貿易とは比較にならない、航海技術上の困難と莫大な資金を必要とします。そこで彼は家康に援助を求めようとしたのです。彼は、家康が太平洋貿易を希求しているであろうことを見抜いていたことになります。その冒険心といい、その優れた企画性といい、みごとな商人魂と言わなくてはなりません。
そこで彼は、金座の後藤庄三郎を頼り、後藤を通じて家康に打診をしたところ、家康も正に文字通り渡りに船ということになりました。田中勝介を家康の代理者ということでスペインとの貿易交渉の任務を与えてアカプルコへ派遣したのです。当時たまたまスペイン船が江戸の近辺で漂流したということがありましたので、これを修理してやって、それでこのスペイン船に田中を同乗させて太平洋のかなたへと送ったのです。
2カ月かかってアカプルコへ行って、田中はスペインの正式の使者を連れてフィリピン経由で日本に帰ってきます。これが1610年のこと、奇しくも、あの咸臨丸による航海のちょうど250年前になるのですね。咸臨丸の太平洋横断の250年前に日本人初めての太平洋横断が田中勝介によって成し遂げられていて、そのスポンサーが家康だったのです。
世界情勢に巻き込まれる日本
──田中勝介もすごいですけれど、家康の先見性も素晴らしいですね。
田中勝介は見事に使命を果たして、スペインのほうもちょうど日本のほうに渡りをつけたかったということで、大使クラスの人間が選ばれまして、田中勝介とやって来て、さらに駿府で家康に会うことになったのです。
ここまで整ったのですから、日本–スペイン交易があって然るべきだったのですが、これは結局成立しなかったのです。キリスト教の布教問題が持ち上がって、新たなメンバー、キリスト教プロテスタント(新教)国であるイギリス、オランダが登場してきて、彼らが絶対スペインとやっちゃいけない、あれは危険な国であると家康に吹き込んだのです。キリスト教を布教しておいて、国を乗っ取るという策略は目に見えている、世界の国々はそれでやられたと言って、特にオランダが強烈に吹き込んだのです。スペインはオランダの宿敵ですから。
オランダ人というのは、元は現在のベルギーのフランドル方面に住んでいた人々ですが、キリスト教でもプロテスタントの教義を信仰していたという理由で、カトリック国スペインの弾圧を受け、火あぶりに処せられ、追われ逃れて北海に至り、そこを干拓して国造りをした人々です。彼らにとってスペインは、まさに不倶戴天の仇敵。
彼らは家康に対して、スペインがいかに危険な国であるかを、ここぞとばかりに説き立てたのです。そして貿易については、自分たちが責任をもって引き受けると約束したのです。家康も致し方なしとスペイン交易を断念して、オランダとイギリスにその役目を委ねたのです。
しかし今度はそのオランダとイギリスの間で仲間割れがはじまるのです。この二つが東南アジアの貿易を巡って仲間割れして、結局1623年に東南アジアのアンボイナ島で発生した英蘭間の衝突事件を機に、オランダがイギリスを東南アジア方面から追い出してしまって、それでイギリスはインドに後退して、そちらに専念をすることになります。イギリスは日本の平戸商館を閉めて、それで全く日本から撤退してしまって、オランダのみが結局残りました。
だから鎖国というのも、家康の方針ではなく、むしろ家康は積極的に世界に出ていっていたのです。世界の国々の対決の結果、世界の複雑な政治情勢の展開の結果として、日本のいわゆる「鎖国」という形になってしまったのです。「鎖国」という現象は、このような観点から捉えられる必要があります。
徳川幕府の方針でなく、ヨーロッパ側の対立問題により進められた鎖国。次回は家康の多面的な人間性に迫ります!
写真:田形千紘 文:安藤紀子
編集・構成 MOC(モック)編集部
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