〜連載第20回〜
自立を目指して生きてきたら、いつの間にか孤立していた。
依存症に苦しんでたら、共存という新たな道が見えてきた。
これは、そんな私の半生の話です。
「老い」とは、手の中にある物をひとつずつ手放していくこと。
厄介な荷物も、大切な資産も、すべてだ。
若い頃、私は「何者でもない自分」がひどく惨めで無力だと感じていた。
私は何者でもない……何かを成したわけでもなく、何を成すべきかもわからず、ただただ先行きの見えない道の真ん中でウロウロしてるだけじゃないか。
私は何者かにならなくてはいけない。
何かを成して世間に認められなければ、これは自分だけのものだと自負できる何かを獲得してみせなければ、私の存在など無に等しい。
私には何ができるのか?
私は何者になればいいのか?
こうして私の「自分探し」が始まり、幾多の試行錯誤や紆余曲折を経て、何十年という月日が経った。
得たものもあったし、失ったものもあった。
だが、まがりなりにも「私」という人間の輪郭くらいは手にできたような気がしている。
「これが私である」と世間に向かって提示できる自分。
それを世間が認めようが拒絶しようが、私自身の中では揺るがない「自分」を。
そして60歳になった今、私はそのようにして獲得した「自分」を手放していく段階に入った。
植物が成長して花を咲かせ実を結んだ後、葉っぱが一枚一枚枯れて散っていくように、私もまた最盛期を過ぎて葉を散らし、最終的に丸裸になっていく準備を始めているのだ。
植物は、自分が枯れていくことを悲しむのだろうか?
それとも、それが生命の定めと受け入れ、淡々と葉を散らしていくのだろうか?
人間である私は、枯れ落ちていく葉が惜しくて仕方ない。
それが生き物の宿命と知ってはいても、そしていずれ朽ちることに異存はないものの、せっかく茂らせた葉が一枚ずつ散っていくのを見ているのが身を切られるように辛い。
いっそ雷にでも打たれて一瞬にして命が散ってしまえばどんなに楽か。
しかし、そのチャンスは5年前に逃してしまった。
今はもう自分が緩慢に散っていくのを侘しい気持ちで眺めているしかないのだ。
そういう意味では、認知症も悪くない。
散っていく自分を正気のままで眺め続ける苦しさから解放されるからだ。
認知症の最初の頃には、自分が理不尽に喪われていく悲しみや恐怖や怒りにもみくちゃにされるが、母を見ている限り、その状態はそう長くは続かない。
やがてその苦しみも忘れてしまい、現実世界を遮断して、己の脳内の夢想世界でタイムトラベルを始めるのだ。
自分が一番幸せだった時代に、もう二度と取り戻せないあの頃に戻って。
母がちょくちょく戻るのは、私たち一家が北九州市の門司という小さな港町に住んでいた時代である。
当時、私は0歳から7歳くらい。
近所には母の両親や弟たちも住んでいて、私は母に連れられてしょっちゅう祖父母の家に行っていた。
頼れる実家がすぐ近くにあって、娘も幼くかわいい盛り。
母にとっては、その頃が一番幸せだったのだろう。
その後、夫の転勤で故郷から遠く離れた東京に一家で移り住むことになり、娘は成長して言うことをきかなくなり、働き盛りの夫は帰宅がどんどん遅くなって、母は孤独を募らせるようになる。
父も私もすぐに東京に順応したが、母はなかなか方言が抜けず、近所の主婦たちとも気のおけない交際ができなかったのだ。
九州に帰りたいと、彼女は何度も思っただろう。
その想いが、認知症になった今、ようやく叶えられた。
今や両親も亡くなり、弟たちも門司を離れて、その町には誰もいない。
が、母の脳内では、まだみんな元気に門司で暮らしているようだ。
「さっきお母さんが家に来てたのに、もう帰ったのかしら?」とか「明日は小倉(門司の近くの繁華街)に買い物に行かなきゃねぇ」などと呟いては、父を震撼させている。
私も父も、母がそのようなことを言うたびにギョッとしていたが、今ではすっかり慣れてきて、私などは逆に祝福したい気分になっているくらいだ。
年老いた夫の顔も、手の施しようもないほど自分勝手な生き方をする娘の現在も、いろんなことを忘れて、母はようやく故郷に戻れたのだ。
そこでは夫は若く、娘は幼く、両親も弟たちも健在だ。
思い出という永遠に散らない花が咲き乱れる楽園を、彼女は見つけた。
そこが彼女の居場所だったのだ。
そこにいれば、自分が枯れて散っていく様子も知らずに済む。
自分も永遠に散らない花になれるから。
アルツハイマーは遺伝性の病気である。
私が発症するかどうかは五分五分だ。
以前は自分が死ぬことよりもボケることの方が怖かった。
しかし母を見ているうちに、それもまたひとつの救済だと考えるようになった。
散っていく葉を惜しんで日々泣くくらいなら、永遠に咲き続ける夢の中で暮らしたほうが幸せだろう。
たとえそれが認知障害の産んだ妄想であっても、だ。
そもそも我々が住んでいるこの「現実世界」とやらだって、我々の脳が作り上げた妄想世界なのかもしれないではないか。
我々は、死ぬまで己の脳内の「主観」の檻に閉じ込められて、そこから一歩も外に出られない。
「客観性」が欲しくていろいろとやってみたが、そんなのは不可能だと思い知っただけだった。
ならば、すべての客観性を捨てて、主観世界の最奥にある妄想の楽園に逃げ込むのも悪くはなかろう。
他人の目には滑稽で傍迷惑なボケ老人と映っても、何を気にする必要があろうか。
だって人間は、生きてるだけで滑稽で傍迷惑な存在なのだから。
(つづく)
イラスト:トシダナルホ
編集・構成 MOC(モック)編集部
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