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笠谷和比古氏が語る、徳川家康の謎と素顔【1】 ~薄氷の上を渡った「関ヶ原の戦い」~

 

 

昨今の戦国武将ブームの中でも、特に人気が高まっているのが「徳川家康」です。

2016年の大河ドラマ「真田丸」(NHK総合ほか)で内野聖陽が演じたコミカルかつ凄みのある家康像が人気を博ました。

翌年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」では、主人公の直虎が夢を託す重要な役回りとなった情味のある家康を阿部サダヲが熱演し、新しい“人間的な武将・家康”象を決定づけました。

今回は、家康が調略を重ねて勝利を飾ったとされる「関ヶ原の戦い」の開戦に至る知られざる真実を、歴史学者の笠谷和比古先生がひもときます。

 

 

関ヶ原の戦いにおける、意外な真実

 

──誰もが知る天下分け目の戦い・「関ヶ原の戦い」に至る、意外な真実を教えて頂けるとお伺いしたのですが……。

 

これまでは、石田三成が挙兵したあと、いわゆる「小山評定」で徳川家康が豊臣武将達に自分の味方をするか、石田三成に味方をするかと選択を迫り、皆家康の味方をするということで一致団結して、一丸となって三成の征伐に向かっていったということが言われてきました。

ところが実際にはそのようにスムーズに事は運んでなかったのです。

家康がほかの武将を味方にして関ヶ原で戦えたことは本当に、あり得ないくらい奇跡に近いような出来事だったことが近年分かってきました。

 

 

 

家康の「空白の1ヵ月」の謎

 

──家康方は盤石ではなかったと。

 

そうなのです。

順序としては、家康は上杉景勝がいる会津に対する対処を終えて、ただちに反転して同盟の豊臣武将が集まっている清洲城に行き、西軍との決戦に臨むという予定だったのです。

ところが、豊臣武将がいくら待っても、家康が来ない。家康は、清洲城に行って仲間と合流しようとせず、江戸城に入ってそのままじっと動かないという行動を取ったのです。

江戸城に入ったのは8月4日。出陣は9月1日ですから、約1ヵ月は江戸城から全く出なかった。

みんな家康を今か今かと待っている、しかも戦いの前の貴重な時間に。

 

──家康は何故そんな行動をしたのでしょうか?

 

何でだと思いますか?

これまでは、「家康は手紙を書いていたから動かなかった」と説明されてきました。

でも実際には、それらは家康の直筆ではなくて、大半の書状は秘書官が書いていますから、そんなに1ヵ月もかかるものではない。

なぜ、家康は動かなかったのか。実は「動かなかった」んじゃなくて、どうしても江戸城から「動けなかった」のです。

 

 

大阪方である、淀と三奉行の思い

 

──「動けなかった」。あの家康がですか?

 

実は、これまで家康と完全に敵対関係とされてきた大坂の淀殿、そしてその下にいる三奉行がキーになるのです。

特にこの三奉行。増田長盛と長束正家、前田玄以の3人から構成されているのですが、この3人は家康に対して、早く上方に戻ってきて、石田三成や大谷吉継たちの不穏な動きを鎮定してくださいと要請の手紙を出していたのです。

このことは、他の手紙の中に引用される形だったので気付かれてこなかったのですが、よくよく読んでみると、家康は「大坂のおふくろさま」、すなわち淀殿、そして三奉行から「早く戻ってきてほしい、不穏な情勢を鎮定してほしい」と手紙を受け、そこで家康は豊臣武将を引き連れて、上方に戻ったという内容が書いてあるのです。

あまりこれまで触れられてきませんでしたが当初は、家康と淀、三奉行は同じ陣営にいたのです。

 

 

 

「小山評定」の約束は有効か、否か

 

──淀と家康が同じ側であったというのは、初めて知りました。

 

そうなのです。三成ら西軍の反家康闘争は、実は二段階に分かれていたのです

第一段階は、石田三成と大谷吉継ら一部の人による反家康闘争で、おふくろさまや淀殿、三奉行は家康側だった。

ですが直後に三成は淀殿や三奉行に対して説得工作に入って、「自分が蜂起したこの機会を逃したら家康を撃つ機会は永久に来ない」ということを相当強く言ったのです。

そこで淀殿たちも腹を決めて、三成側に正当性を与えることにしてしまいました。

三成が蜂起したのは7月10日、実は淀殿たちが三成側につくのは7月17日という1週間なのです。

7月17日に淀殿たちが意志を変えたことで三成側が正当で、家康が謀反人になった。これが第二段階です。

豊臣武将は第二段階を知った上で7月25日に行われた「小山評定」で家康側についたのかというと、これは知らなかったということなのです。

家康は先ほどの三奉行や淀からの手紙を見せびらかしているわけです。

彼らは私の味方をしている、あなたたちは三成と私、どっちにつく?と。

そんな手紙を見せつけられたら、家康につくに決まっているじゃないですか。

ところが7月29日を境に風向きは変わってしまいます。淀殿や三奉行たちが三成側についてしまったという第二段階の情報が、家康の下にも届いたのです。家康はいまや謀反人の扱いになってしまった。

そうすると、豊臣武将たちは、小山評定で家康に味方するといったけれど、その誓約は今や有効なのか無効なのかという問題が出てきます。

きわめて深刻な事態です。

 

 

家康の複雑な心境とは?

 

──これは無効でしょう。

 

理屈からいうと無効です。でも当時の武士の気質からしたら、一度口に出したものは死んでも守る、武士に二言はなしという考え方もあります。

淀たちの考えが変わってしまったことを知る前に、武将たちは小山をはなれて清洲城に向かったのです。

そのころに遅れて淀殿たちの今の考えがこうであるという情報が入ってくる。

そこで彼らは、小山評定でした約束は有効なのか無効なのかということをそれぞれ考え始めることになります。

武将たちは陸続として東海道を西へ向かっているわけですが、前を行くあいつはどうするのかな、後からやって来るあいつは変わるのかな、そもそも自分はいったいどっちなんだろうか。

みんな???で頭の中がいっぱいになっている状況です。

そんな危ないところへ家康が行けるはずがないでしょう。

そこへ家康が行ってしまったら、「小山評定ではあなたに味方するって言ったけれど、そもそもの淀殿たちの考えが変わってしまった。

今やあなたは謀反人だから、お命頂戴する」って言われかねない状況です。

だから家康はどうにもならなくなって、江戸城で1ヵ月間動けなくなってしまったということなのです。

 

 

 

家康の策で状況が一変!

 

──豊臣武将は疑心暗鬼になりながら、清洲城に留まっていたのですね。

 

面白いのは、家康に味方をすると最初に発言した福島正則という人は、豊臣武将たちの兄貴分で、彼は誰よりも最初に家康に味方をすると言ったのです。

それを言った手前、今あれが間違っていたから変えるわ、とは言えないのです。

一本気な人間でしたから。

これが加藤清正あたりでしたらもうちょっと複雑な思考になっていたのですけれど、福島は単純にブレなかった。

「俺は家康に味方をすると言った。それだけだ。

議論前提なんか関係ない」と。ほかの武将も福島がブレないから、とりあえず従っておくかと。

そして福島は、「なぜ家康は来ない、俺たちを裏切るのか」と怒って、清洲城は沸騰するのです。

家康の先遣隊で井伊直政と本多忠勝は行っているわけだけどこのままじゃ清須が収まりがつかなくなるから、一も二もなくとにかく来てもらわなければ困ると言ったけど、家康は依然として危ないですから、行けない。

そこで腹心の村越直吉を使者として挑発的な言辞を彼らに投げかける。

すなわち、「あなた方が日和見を決め込んで戦おうとしないから、私も出馬できないのだ。あなた方が行動で示すならば、いつ何時でも出馬するでしょう」と。

そういう口上を送るわけですよね。でもこれは当時の武将の感覚からすると全く人を馬鹿にした言い方であって、ほとんど喧嘩を売っているような話なのです。

事前に聞いた井伊直政と本多忠勝は、「いやそれはやめろと、そんなこと言ったら収まりがつかなくなるからもうちょっと和らげて言え!」と言ったのですけど使者の村越は愚直な人間だからその通り言っちゃった。

家康の本音としては、挑発的な文言で怒らせて、人をふるいにかけたのです。

いい加減な奴は全部、向こうへ行けと。近くに居て裏切るような奴が一番怖いのです。そういう人間をはじこうとしたのでしょう。

しかし福島正則はそれに激しく刺激されて、「目にもの見せてくれる」というわけで、彼は徳川軍抜きで岐阜合戦という関ヶ原合戦の前哨戦に入ってしまい、勝利します。

しかしそれは勝ちすぎた勝利となってしまったのです。これも家康の想定外のことでした。

 

 

さまざまな想定外が重なって始まった「関ヶ原の戦い」。

次回は家康が「征夷大将軍」となり実権を握るまでの経緯に迫ります。

 

写真:田形千紘 文:安藤紀子

 

 

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編集・構成 MOC(モック)編集部
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