私たちの人生に暗い影を落とすもののひとつが、病気です。
「現代医療という果実の“いいとこ取り”は医者と患者の双方が何度もよく話し合うことで可能となる」そんな提案をしているのが医師・長尾和宏さんです。
「尼崎の町医者」と自称しつつ、その胸に抱く志で救われた患者は全国にどれほどいるのだろう。
幾人もの患者の最期を看取ってきたその手で筆をとり、社会に訴え続けているメッセージとは――?
──話題の著書『薬のやめどき(長尾和宏著、ブックマン社、2016年発刊)』など、ご自身のクリニックでの日常診療の傍ら、精力的に執筆活動もされていますよね。
長尾先生にとって著書を世の中に送り出すことにはどんな意義がありますか?
伝えるということですね。僕ら医療者は人の生き死や命そのものを扱うのが仕事です。
患者さんから教えて頂いた智慧を自分だけのものにしておくのはあまりにも“もったいない”と感じることがある。
臨床現場から得られたノウハウを世の皆さんのために普遍化したいとかという気持ちがあります。
一方で、死はその人その人のもの、みなさんで物語はすべて違うのです。
またオープンにできる情報とできない情報があって、それをうまく使い分けなければいけません。
医療の基本は個人情報の遵守です。
そこを上手にクリアしながら“伝える”という作業も自分の中では、二番目に大事なミッションです。
本の執筆や講演活動をしていますが、所詮僕は一介の町医者です。
町医者という立場にいるからこそ、もし大病院に勤めていたら絶対に気がつかなかったであろう貴重な経験を沢山させて頂きました。
特に終末期医療に関しては30年間やてきて言いたいことが沢山貯まった。
蓄積されている情報や経験をもっと色々な人たちに知ってほしいという思いが50歳を過ぎたあたりからメラメラと湧きあがってきました。
いい情報はどんどん人におすそ分けしたい。
たくさんの本を書いている理由はそんなところです。
──人の生死、人の命という、非常にデリケートな状況に常に接していらっしゃいます。
病気のなかでも特に、抗がん剤治療について、従来の治療法に疑問を投げかけるようになったきっかけは?
ある患者さんの最期がきっかけでした。
ちょうど今から二十数年前の話です。阪神淡路大震災の一年くらい前のこと。
消化器の医者である僕はある胃がんの患者さんを担当していました。
みぞおちにあるがんの塊は日々大きくなっていたのですが、ある日その患者さんは「抗がん剤をやめたい」と言い出しました。
僕は上司に相談しましたが「もっと多くの抗がん剤を与えなさい」と指示されました。
馬鹿な僕は患者さんに「抗がん剤はやめてはいけない」とそのまま伝えました。
すると彼は「もうひとつ、お願いがあります。とにかく家に帰りたい。先生に家に往診してほしい」と言いました。
しかし、200床以上の規模の大きな病院は、当時も今も保険診療上、往診は算定できません。
それで僕は彼の願いを断ってしまったのです。
その深夜、僕の家に電話がかかってきました。
その患者さんが病院の屋上から飛び降り、亡くなってしまったのです。
数時間前までは僕の目の前にいて、一緒に話をしていた人が亡くなった。
誰のせいか?
僕のせいです。
僕の説明が悪かったから。
もうちょっと他に言い方があったんじゃないか。
そんな想いが頭をよぎりました。
彼の切実な願いに対して、自分は杓子定規的に事務的に答えたただけのダメ医者。
僕はあまりにも未熟でした。
──医者としての自分の在り方に疑問を感じたのですね。
もしも僕が門前払いみたいな断り方をしていなかったら?
彼は自死を選ぶことはなかった?
「家に帰りたい」という願いは、彼にとって大きな意味があったのではないか……?
そんな葛藤でモヤモヤしていたとき、阪神淡路大震災が起きました。
1999年1月17日のことです。
今振り返っても、僕がそこで生き延びられたのは運が良かっただけだと思ういます。
住んでいた古いマンションは半壊状態でした。
僕も人も街全体もまさにカオス状態でした。
芦屋市民病院の勤務医でしたが、怪我人が溢れていて本当に大混乱でした。
僕は昼夜関係無く被災者の治療にあたりましたが、こちらが参ってしまいそうなほど混乱していました。
僕ら医者は一生懸命に治療をするんです。
でも僕らも被災者なんです。
被災者が被災者を助けるという構図は本当に辛いものです。東日本大震災や熊本地震で現場に当たっていた医者もそうだと思います。
阪神淡路大震災は僕にとって大きな契機になりました。
運よく死ななかっただけで、“生かされた命”を強く意識するようになりました。
そして、勤めていた病院を飛び出す決心をしました。
5歳の時に住んでいた尼崎という街の商店街の中にある小さなビルの2階に診療所を構えました。
──「長尾クリニック」の開業は、葛藤のなかでスタートした。
商店街の片隅の先輩がやっていた診療所を安く譲り受けました。
病院であれほど忙しかったのに、開院してら患者さんは全然来ないのです。
僕は消化器の専門でもあるけれど、いろんながんを診させて頂きました。
病気を診て治す手助けだけでなく“お看取り”も大切な仕事になっています。
開業当時の患者さんの数は1日数人程度。
そんななか、ある肝硬変と肝臓がんの男性の主治医になりました。
もう終末期で黄疸と腹水がありました。
当初は通院でしたが、自然に在宅医療に移行して3ケ月後に自宅で穏やかに亡くなられた。
その人が在宅看取りの第1号でした。
その男性の自宅での穏やかな最期を耳にした商店街の方が口コミで一人、また一人とクリニックに来てくれるようになりました。
──口コミで広がったという点が興味深いです。患者が医者を選んでいる。
医療はこちらから押しかけるわけにはいきません。
無我夢中で23年間、町医者をやっているうちに、気が付いたら毎日1人くらいの割合で在宅医療を頼まれるようになりました。
昨夜もお看取りがありました。
気が付いたら在宅看取りは1000人を超えて、650人くらいの在宅患者さんを診ています。病院なら650床ですね。
今の医療は細分化されています。
胃がんの専門家は胃がん。肺がんは肺がん、脳腫瘍、白血病とそれぞれの専門家が診ている。
専門分化の果実が大くなるに比例して、大病院では患者さんの断片しか診ることができないという負の側面も大きくなりました。
患者さんの人生や生活、緩和医療や死ぬところにまで医者の目が充分に届きません。
終末期と判断されると大病院なら入院が2週間を超えると。
ホスピスや違う病院に移ることになります。その中で在宅を希望される方も増えてきました。
ところでここ尼崎は全国約1700の市町村自治体のなかでがんの訂正死亡率ワースト1。
今まで沢山のがんを診させてもらったり教えていただいた全てがとても貴重な経験だと感じています。
──「尼崎の町医者」ならではの視点がある。
僕と患者さんとのお付き合いは、長い方は20年、30年に及びます。
病気に罹った最初のほうから最期までを診ることも時々ありますね。
とにかく長く診させて頂くことが町医者として一番嬉しい。
私のクリニックは診療所ですが、多くの機能があります。様々ながんを発見しています。
治る人もいますし、通院できなくなった人は在宅診療で緩和ケアを提供します。
開業当初からがん患者さんには、がん専門病院と町医者の「二股」を説いています。
がん闘病をボクシングに例えるなら、セコンド係が必要です。
時にはタオルを投げる役が町医者ではないか。
僕はがんの専門家ではありません。
「専門家でない人間がなぜがんの本を書くのか」とも言われますが、町医者目線のがんの本があってもいいのではと思い書いています。
がんは決して特別な病気ではありません。
もっともありふれた病気。特別視せず、生活のなかで患者さんの想いと向き合っていきたいのです。
町医者だから診てきた光景、得てきた経験がある。もちろんそこには迷いもあった、後悔もあった。
そして必ず誰かの人生に寄り添った――。
だからこそ、治療を“医者と患者が話し合って決めるもの”というフラットな目線で捉えているのでしょう。
次回インタビューでは、長尾先生が思う、今後のがん治療の行方を聞いていきます。
写真:澤尾康博 文:鈴木舞
編集・構成 MOC(モック)編集部
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