〜連載第57回〜
自立を目指して生きてきたら、いつの間にか孤立していた。
依存症に苦しんでたら、共存という新たな道が見えてきた。
これは、そんな私の半生の話です。
物心ついた時から、私はこの世界の「よそ者」だった。
それがアスペのせいなのか、別の要因のなせる業か、それとも私以外のすべての人間が生まれた時から「よそ者」なのか、そこのところはわからない。
私はカフカの「城」の主人公のように、「何故、自分はここにいるのか」「自分はこの世界で何をすべきなのか」「ここに住む人々は何を考えているのか」「何故、自分はこの人たちと心を通わせられないのか」などと多くの疑問を抱え、ずっとその答を探して生きてきた。
その問いはいつしか自分に向けられ、「そもそも私は何者なのか」という命題に変わった。
私とは何者なのか?
私という人間を動かしているのは何者なのか?
私自身か、それとも他者か?
しばしば私の意志や予測に反して行動する、まるで他人のように制御不能な欲望や衝動。
これもまた「私」なのだとしたら、そもそも私とはいったい誰なのか?
私の中に、私の知らない「私」は何人いるのだろうか?
と、このようなことを考え続けて、私はぐるぐると城の周りを歩き続けた。
どこにも入り口のない、中を覗き見るための窓もない、それどころか近くに辿り着くことさえ困難な複雑な迷路に囲まれた「私」という城の周りを。
そして、その迷路の奥に棲むミノタウロスの影を、私は見た。
それが「ナルシシズム」であったのだ。
私の目をくらませて行くべき道を見失わせ、本当の自分の姿や気持ちから目を背けさせたうえに、欺瞞に満ちた自分の言動を正当化させようともする、この厄介な幻術使い。
こいつこそが私の核であり、私の生涯の宿敵なのだと思った。
この敵と戦わない限り、私は永久に城にはたどり着けない。
だが、敵は自分なのだ。
私が自分を守るために飼っている番人なのだ。
そいつを倒したら、私は無防備になってしまう。
いや、それ以前に、倒せる敵だとも思えない。
私は他者の気持ちを読むのが苦手なのだが、それはもちろんアスペのせいでもあるものの、そもそも他者が本当のことを言わないからだ。
みんな嘘ばかり言うから信用できない、と、ずっと思っていた。
この人たちはなんで嘘なんかつくんだろう、と、ずっと疑問に思っていた。
だが、今ならわかる。
その嘘や欺瞞の裏には、必ずナルシシズムの幻術が働いている。
彼ら彼女らには、嘘をついているという自覚すらないのだ。
本音を隠しているのではない、自分の本音に気づいてないのだ。
ナルシシズムが仕掛けた巧妙な罠にはまって自分を騙し続け、ぐるぐると「私という迷路」をさまよっているだけなのだ。
私に辿り着けないのは、私だけではない。
私も含めて人間たちは皆、己が何者であるかをわかっていないのだ。
わかっていないのに、わかったような気持ちになって生きている。
私はずっと、他者たちが私の知らないルールを暗黙の裡に共有しているのかと思っていたが、じつは彼ら彼女らは何も共有していないのだった。
共有しているふりをしているだけだ。
その「ふり」を長年続けているうちに、共有しているつもりになっているだけだ。
我々は繋がってなんかいない。
わかり合ってもいない。
ひとりひとりが宇宙に浮かぶ孤独な惑星で、そこには自分しか住んでない。
友を求めて広大なネットの虚空に向かってひたすらメッセージを発信し続けるが、返信して来る者たちはいずれも自分の孤独で手一杯。
自分を理解してくれとすがって来るばかりで、他人のことなど本気で理解しようとしている者などいないのだ。
みんなが救いを求めているけど、救いの手は誰からも永遠に差し伸べられない。
何故なら、我々は自分を救うこともできない無力な存在だから。
自分すら救えない者が、他人を救うことなどできようか。
しかし、そんな仮初めの繋がりに依存してしまうほど、我々の孤独は深刻なのである。
誰からも理解されない、自分の居場所はどこにもない、と、悲嘆と絶望に病み疲れて心を擦り減らす。
でも、考えてもみて欲しい。
「誰からも理解されない」と嘆くのは「誰かが理解してくれるはず」という思い込みが前提にあるからこそではないか。
最初から「人は互いに理解し合えない生き物なのである」とわかっていれば、誰にも理解されないことでそんなにも傷つくことはない。
だが、人はそのような身もふたもない前提をなかなか受け容れられないのである。
何故か?
そうだ、またあいつのせいだ。
あの「ナルシシズム」が、自分こそが世界の中心だと思いたがるあの厄介な「ナルシシズム」が、自分が誰にも理解されず相手にもされないちっぽけで凡庸な存在であるという事実を認めたがらないからだ。
だから、理解されないことや承認されないことに傷つき、居場所がないなどと言い始める。
君の居場所はあるんだよ、君自身の中にね。
ただ、そこには君しかいないけど。
だけど、君しかいないから、そこは快適なんだ。
我々は自分しか愛せないから孤独なのであり、そのせいで誰からも愛してもらえず絶望している。
すべての人間が自分しか愛していないのだから、誰からも愛されなくて当然ではないか。
「いや、自分は家族や恋人を愛してる」と反論する人もいるだろうが、以前にも述べたとおり、その「愛」は自己愛の延長に過ぎない。
その証拠に、愛する対象が自分をさしおいて他の誰かを愛したら、たちまち嫉妬と怒りに目がくらむ。
相手が誰を愛そうが、誰を選ぼうが自由なはずなのに。
ナルシシズムに支配されてるからこそ、そこに嫉妬という感情が生まれるのである。
自分を一番に思ってくれない相手に腹が立つのだ。
でも、その怒りは、言うまでもなく不当だよね?
「自分を一番に思って」なんて、他人に強制する権利は誰にもないのだから。
我々がこの愚かしいナルシシズムの呪縛から解放されるには、まず「私が孤独なのは不当でも不平等でもなく、当たり前のことである」という事実を受け容れなくてはならない。
そして、愛されようとか愛してるふりとか、そういう無駄な努力を放棄するのだ。
愛のない世界なんてなんて殺伐としているんだろう、と、思うだろうか?
そんなことはない。
何故なら、愛を諦めたその先に、愛は存在し得るからだ。
(つづく)
イラスト:トシダナルホ
編集・構成 MOC(モック)編集部
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