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自立と孤立、依存と共存 中村うさぎ連載コラム 〜第55回〜

 

 

〜連載第55回〜

自立を目指して生きてきたら、いつの間にか孤立していた。

依存症に苦しんでたら、共存という新たな道が見えてきた。

これは、そんな私の半生の話です。

 

 

最近、理解しにくい殺人事件などが起きるたびに犯人を「サイコパス」と決めつける人が多くて、なんだかとても不快である。

そもそも「サイコパス」の定義をしっかりと理解したうえで使っているのか、あるいは「理解不能のモンスター」の単なる言い換えの言葉として使っているのか、おそらく後者が多いと思われるだけに、安易に他人を「サイコパス」と決めつける軽薄さがどうにも気持ち悪い。

その人たちは、自分が正常だとでも思っているのだろうか?

 

サイコパスの特徴は「他者への共感力の欠如」、いわゆる「冷血」と呼ばれる心性であるが、だいたい「他者への共感力」なんて、みんなそんなに持ち合わせているのか?

人類のほとんどが「他者への共感力」を有しているなら、イジメや差別や戦争という大量虐殺はどうして発生するのか。

イジメられる側、差別される側、虐殺される側に共感する能力があれば、他者に対してあれほど残忍な仕打ちはできないはずではないか。

我々は自分が思っているほど思いやり深く寛大な生き物ではない。

必要とあらば、顔も知らない他人をいくらでも「人間ではないモノ」として扱える冷血漢なのである。

 

サイコパスと呼ばれる性格が他の発達障害のように遺伝的要素の強いものだとしたら、サイコパスの遺伝子が淘汰されずに生き残ったことには何かしらの理由があるだろう。

私はそっちのほうに興味がある。

サイコパスは優れたリーダーシップやカリスマ性を発揮して、企業のトップに立つことも多いという。

その冷血ゆえに、情緒に左右されず、容赦なく社員を切り捨てたりライバルを蹴落としたりできるからだ。

しかし、そんな冷酷で残忍なトップに、部下は付いていくだろうか?

リーダーシップやカリスマ性は、自分に心酔してくれる人々がいて初めて発揮できるものではないか。

 

そう、サイコパスは単なる反社会的人格ではない。

周囲の目には非常に魅力的な人物として映るのだ。

これがサイコパスの面白いところである。

社交的で礼儀正しく優しくて、きわめて好感度が高い。

そのスマートな立ち居振る舞いからは、奥に秘めた残忍さや冷酷さの片鱗も窺えないのである。

これは、サイコパスが演技力に長けているからだという人もいるが、私にはそうは思えない。

表面的な演技だけで、人はそこまで周囲の支持を得られるだろうか。

あっという間に馬脚を現して、逆に信用を失くす羽目にもなりかねないではないか。

 

では何故、サイコパスは人を惹きつけるのか?

それはおそらく、サイコパスが内面を隠す術に長けているからだけではない。

そういう面も否定はしないが、たぶんそれだけではないという気がする。

人を惹きつける理由はサイコパス自身にあるのではなく、周囲の人間たちの中にこそあるのかもしれない。

つまり、我々には元々、こういう人物に惹かれてしまう習性があるのだ。

 

悪い男がモテるのは何故か、と、私は昔から不思議に思っていた。

私も含めて多くの女性は、真面目で誠実な男より、どこか薄暗い影があったり謎めいてたりする男に恋をしがちだ。

そんな影なんかどうせろくなものではないのだが、それを承知でどうしようもなく惹かれてしまう。

しかも、これは何も女性に限った傾向ではない。

優等生より不良の方が、同性の男たちにも憧れや崇敬の気持ちを持たれやすいのだ。

 

何故、我々は「ワル」に惹かれるのか?

それはおそらく、我々がそこに「英雄」の幻影を見るからではないか?

心拍数の低い人間は恐怖心が薄く、危険なことにも平気で挑む大胆さを発揮する。

それは「節度を持って生きる」ことを要求される近代~現代社会では犯罪者の素質となるが、もっと昔の中世以前には「英雄」の資質だったのではないか。

恐れを知らぬ豪胆さで他を圧する強い雄は、多くの雌を惹きつけるための生存戦略の産物であったに違いない。

だから今でも我々は、そのようなピカレスク的な存在にロマンを感じ、憧憬と崇敬を抱いてしまうのだ。

 

英雄というものは、そもそも冷酷さや残忍性を秘めているものである。

大胆で野心的で、だけど平気で人を切り捨てる冷血なサイコパスは、「英雄」にもなり得るが「犯罪者」にもなれる。

狂人と天才が紙一重であるように、「英雄」と「犯罪者」もまた表裏一体なのだ。

サイコパスが淘汰されない理由はそこにある、と私は思う。

彼らは凡庸に生きるしかない我々の「希望の星」なのである。

 

人並み以上の人間は、同時に人並以下でもある。

このシニカルな平等性こそが、人間の特徴なのかもしれない。

「平等」などという概念を持たない他の生き物たちは、ただただ強い者、美しい者、生存戦略に恵まれた者だけが選ばれて生き残っていく。

だが「社会」という共同体で生きていくことを決めた人間は、強くても美しくても社会規範によってハンディを負うことがある。

そして、平均点の凡庸な者が最終的にマジョリティとなるのだ。

それはそれでひとつの進化だが、しかし我々はマジョリティの座にあぐらをかきながらも、突出した(あるいは逸脱した)マイノリティへの崇敬の念を捨てられない。

我々は誰もが「選ばれし者」になりたい。

それは、同じく人間特有の資質である「肥大したナルシシズム」のためである。

この「肥大したナルシシズム」がまた、我々の重い十字架であると同時に、我々を導く「希望の星」でもあるわけだ。

 

ワイドショーのコメンテイターたちが顔をしかめて「異常ですね。理解できませんね。恐ろしいですね」と批判する犯罪者たちと、彼ら彼女らが口を揃えて誉めそやす天才や英雄たちが、じつは同類なのだという事実を、我々は肝に銘じておくべきであろう。

そこが人間の面白さだからだ。

世界を「善と悪」「英雄と犯罪者」「天才と狂人」の二分割で考える視点では、人間という生き物の面白さも世界の複雑さも味わえない。

 

でも、みんな、わかりやすい二分割が好きだよね(苦笑)。

世界が単純であるほど、自分の立ち位置を決定しやすいからだろう。

しかし、安易に自分の立ち位置を決めて自己定義してしまうと、あなたの世界は狭くなり、生き方の選択肢も激減する。

「居場所が見つからない」と嘆く人々は、たいてい、住んでいる世界の狭さに問題があるのだ。

世界は広くて複雑で、そのうえ難解で不条理だ。

人間もまた同様である。

だからこそ、世界も人間も面白いのである。

(つづく)

 

イラスト:トシダナルホ

 

 

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編集・構成 MOC(モック)編集部
人生100年時代を楽しむ、
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PROFILE

中村 うさぎ

1958年生まれ。エッセイスト。福岡県出身。
同志社大学文学部英文学科卒業。
1991年ライトノベルでデビュー。
以降エッセイストとして、買い物依存症やホストクラブ通い、整形美容、デリヘル勤務などの体験を書く。

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