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自立と孤立、依存と共存 中村うさぎ連載コラム 〜第29回〜

 

〜連載第29回〜

自立を目指して生きてきたら、いつの間にか孤立していた。

依存症に苦しんでたら、共存という新たな道が見えてきた。

これは、そんな私の半生の話です。

 

自分でも自覚しているのだが、私は親への情が非常に希薄である。

いい年をして親に支配されたり憎んだりしている人の気持ちが全然わからないし、親への深い愛を語る人を見ていても「ふ~ん、すごいね」くらいにしか感じない。

べつに親が嫌いなわけではない。

むしろ「嫌い」な方がまだ情があると言えるだろう。

私は親を「好きでも嫌いでもない」のだ。

そりゃ赤の他人よりは親近感を持っているものの、親しい友人と比べると同程度あるいはそれ以下だ。

家族だからって、特別な感情を抱く必然性があるのか?

友人の方が私を理解しているのに?

 

と、このようなことを言うと、「きっと中村は親に愛されなかったんだな」などと解釈する人が必ずいるが、そんなことはないと思う。

たぶん、親が私に注いだ愛や関心は他の家庭のそれとたいして変わらないだろう。

確かに父親とは長らく対立関係にあったが、それはどこの家でも見られる現象だと思う。

価値観の相違や支配・被支配の関係が軋轢を生まない方が不自然だ。

そして一方、母親は私を盲目的に溺愛した。

それもまた、私にとっては少々負担であった。

母の溺愛は決して支配的ではなく、むしろ私に対して従属的なものであったが(要するに甘やかしたわけだ)、彼女が私を理解したことはついぞない。

それは「何が何でも我が子がかわいい」という、いわゆる世間一般の「母性愛」というやつであろうが、私は自分を理解しない人から無条件の愛を注がれても居心地の悪さを感じるばかりだ。

だって、それ、私じゃないもん。

あなたが愛してる娘は、私じゃないんだよ、お母さん。

 

このような冷淡さが例の「アスペルガー症候群」に起因しているのかどうか、私にはわからない。

自分を理解しない親から無条件に盲目的に注がれる「愛」を、健全な人々はありがたく思うものなのだろうか?

それとも、多くの人々は母親と価値観を共有していて、そこに齟齬などまったく感じないのだろうか?

それはそれで、私に言わせれば、随分と脇の甘い「愛」である。

人は成長の過程で一度くらいは親の価値観を疑うものだと思うし、それこそが「自立」への第一歩だと感じる。

「正しい親」など、この世にいない。

何故なら、親は人間だからだ。

親を絶対視している人々は、親を人間として見ていないのではないか、という気さえする。

親を人間として見ない限り、一生、親離れはできない。

 

私の周りにはゲイが大勢いて、彼らの多くは「母親思い」である。

それゆえ、「母を悲しませたくない」という理由から、ゲイであることをカミングアウトしない人たちも少なからずいる。

すべての同性愛者が親にカミングアウトする必要などないと思うので、べつに彼らが母親の前でノンケを演じているのを批判するつもりは一切ない。

でもさ、あなたの大事な母親が愛しているのは、本来のあなたではないのでしょう?

仮面を被ってまで母親に愛されることを望み、母親を守ろうとするその気持ちは世間的には「孝行息子」っぽいけど、親より自分の方が大事な私にはやっぱり理解できない心情なのである。

 

このように、家族に対して非常に淡泊な私に、生まれて初めて「家族愛」を実感させたのは、親ではなく夫の存在だ。

彼はゲイであり、ゆえに私との間に恋愛や性愛は一切存在しない。

恋愛こそが結婚のスタート地点であり、性愛によって子作りする夫婦愛こそが家族の基盤を成すという世間一般の常識からはかなりかけ離れた夫婦であるが、それでも「愛」は確実に存在する。

いや、むしろ恋愛や性愛が介在しない分、我々の愛は「誰得」であり、独占欲や支配欲などから純粋に切り離されているように思う。

夫は私の母親よりもはるかに私を理解している。

私の価値観や世界観を理解し、しかし無理に共有するでもなく、自分は自分の価値観で生きている。

もちろん自分の価値観を私に押し付けることもない。

 

ある意味、バラバラな家族だとも言えるが、お互いの価値観を尊重するのが我々なりの「愛」の表現なのである。

その証拠に、夫は私以外の人間との価値観の相違にはまったく我慢も譲歩も妥協もしない。

ただ相手を軽蔑して関係を断つだけだ。

そのような人たちに対して夫がガラガラピシャーンとシャッターを降ろす瞬間を私は何度も目撃してきた。

そして、そのシャッターは、一度降りたら二度と開かない。

だから、彼は誰にでも寛容なわけでもないし、忍耐強いタイプでもないのだ。

 

そんな彼が、私にだけは、どんなに価値観が違っても尊重しようとしてくれる。

自分とは全然異なる私の生き方を批判せず、さりとて迎合することもなく、ただ理解はしていて共存する道を選んでいる。

子を理解していない親の盲目的な愛とも違い、家族全体が一丸となって同一の価値観を共有するよう望む同調圧力的な愛でもなく、言うなればきわめて個人主義的な愛である。

このような個人主義はしばしば個々の孤立を生むが、我々は個人でありながら共同体でもある。

身体の不自由な私を夫は献身的に介護してくれるし、私は私で夫を経済的に支えようと頑張ってきた。

個人主義と互助のバランスが何故うまく取れているのか、私には説明できない。

だが、これこそが私の望んでいた「家族愛」なのだと感じている。

 

みんな、「愛」という言葉を簡単に使い、無批判に「愛」を称賛するが、そもそも「愛」とは何なのか。

自己犠牲が愛だとも思えないし、盲目的な母性も同調圧力的な絆も愛とは違う気がする私には、世間の「愛」がわからない。

むしろ「そんな迷惑な愛はいらねー」などと思ったりもするくらいだ。

 

先日、あるプロテスタントの牧師さんが言っていた。

「キリストの言った『汝の敵を愛せ』や『右の頬をぶたれたら左の頬を差し出せ』という言葉は世間で無条件な愛と解釈されているが、それは少し違うと思います。

彼の説いた愛は、相手と対等になるためのものなのです。

相手の侮辱や支配に真っ向から立ち向かうのではなく、もちろん迎合するのでもなく、そんなあなたを私は許し愛しますよという態度を取ることで、その主導権を解体し無効化する行為なのです」

親を恨んだり憎んだりしているうちは、親と対等にはなれない。

それはむしろ親の支配下にあるからこその反抗である。

親を単なる未熟な人間として許した瞬間、人は親を「他者」として対等に見ることができる。

そして、対等になって初めて、相手を尊重する気持ちも持てるのだ。

私にとっての「愛」とは、じつに、そのようなものなのである。

(つづく)

 

イラスト:トシダナルホ

 

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編集・構成 MOC(モック)編集部
人生100年時代を楽しむ、
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PROFILE

中村 うさぎ

1958年生まれ。エッセイスト。福岡県出身。
同志社大学文学部英文学科卒業。
1991年ライトノベルでデビュー。
以降エッセイストとして、買い物依存症やホストクラブ通い、整形美容、デリヘル勤務などの体験を書く。

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