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自立と孤立、依存と共存 中村うさぎ連載コラム 〜第10回〜

 

〜連載第10回〜

自立を目指して生きてきたら、いつの間にか孤立していた。

依存症に苦しんでたら、共存という新たな道が見えてきた。

これは、そんな私の半生の話です。

 

私が自殺を図ったのを知って、夫は傷ついたようだった。

そりゃそうだ。

早く元気になって欲しくて懸命に介護してるのに、当の本人が頑張る意思などまったくなくて、あまつさえ死のうとするなんて。

自分の努力は何だったのかと腹が立つのも当然だ。

私が彼の立場だったら、

「二度とかいごなんかしてやるもんか! 死にたきゃ勝手に死ね!」

と激怒したことだろう。

 

夫が傷ついてるのを見て私もひどく反省し、「この人を悲しませないために生きていこう」と、その時は思った。

「家族のために」生きる……そんな目標を持てば、生きる気概が生まれて来るかと期待したからだ。

だって、たいていの人たちは、それを支えに生きてるんでしょ?

 

だが、私は「人のために生きる」ことができない人間なのであった。

もちろん、夫には深く感謝してるし、心から大切に思っている。

彼は、この世で私を本当に理解してくれる数少ない人間のひとりだ。

かけがえのない存在と言っても過言ではない。

そういう状況になったことがないから確信は持てないが、彼が死ぬか私が死ぬかの二択なら、私は自分が死ぬ道を選ぶだろう。

 

でも、それは「命を捨ててもいいくらい愛してる」ということではなく、単に私が「彼に死なれたくない」のと「私が生きていたくない」という甚だ身勝手な理由である。

ただのエゴだ。

愛と呼ぶにはお粗末すぎる。

 

おそらく、私のようなただのエゴを「愛」と勘違いしている人もいるのだろう。

もしかすると、世間一般の「愛」なんて、ほぼそんなものなのかもしれない。

映画「タイタニック」で愛する女を助けて海に沈んだデカプリオに感動した人は多いようだが、私は素直に感動できなかった。

そもそも、ああいうのを「愛」として語るヒロインが気持ち悪いし、死んだデカプリオだって単にヒロイズムに酔ってただけかもしれないじゃん。

ヒロイズムは、他者への愛ではなく、己に酔っているだけの「ナルシシズム」だ。

そして、そんな「命がけの愛」なんか欲しがる女も、ただのナルシストにしか見えない。

 

私は、誰も私のために死んで欲しくないし、純粋な意味では誰のためにも死ねない。

私は私のために生き、私のために死ぬことしかできないのだ。

だから私は、こんなに愛してくれる人がそばにいても、自分勝手な「死にたい願望」を「生きる意志」に転換できない。

 

私には、夫が何故こんなに献身的に私の世話をできるのか、まったくわからない。

夫にそれを尋ねても、

「あなたは自分で思っている以上に、私にいろんなことをしてくれたの。

だから、私は今、それをお返ししてるだけ」

と答えるのだが、正直、私は彼のために何かをした記憶がないのである。

そりゃまあ、彼が強制送還されないために結婚もしたし、働くのが苦手な彼を養ってもきた。

だが、それだってすべて、私がしたくてやったことだ。

私のヒロイズム的快感を満たすためにやってきたことだ。

気持ちよくなかったら絶対やらないよ(笑)。

苦痛に耐えてまで他人の面倒見るほど、私はお人好しではない。

 

私の中に潜むどうようもないヒロイズムは、心肺停止の直前に私が「世界を救わなきゃ」などという世迷言を真顔で言っていた事実からも窺える。

どうやら私は世界を、人類を救いたいらしい(笑)。

自分で自分を救うことすらできない無力な人間が何を言うとるんや、と噴き出したくなるが、私のこの誇大妄想的なナルシシズムは私の人格の核にがっつりと居座り、隙あらば他人にお節介を焼いて悦に入ろうと企てる。

夫と結婚したのも、その「人助けの快感」が私を夢中にさせたからだ。

決して高潔な意志ではない。

 

だから私は、夫が悲しもうが傷つこうが、お構いなしに死にたがるのだ。

自殺未遂からずっと、毎日のように、私は「死ねない自分」を呪った。

眠る前は「明日、目が醒めなければいいのに」と本気で思い、目が醒めるたびに落胆した。

 

ああ、今日も私は死んでない!

これからどれだけの朝を、こんな憂鬱とともに迎えるのだろう?

もう嫌だ。こんな地獄の裡に生きているのは、本当に耐えられない!

 

芥川龍之介が短編「歯車」の中で書いた一文を思い出す。

「誰か僕の眠っているうちにそつと絞め殺してくれるものはないか?」

わかる! わかるよ、芥川!

私も同じことを毎日考えている。

自殺するのはあまりにも自分勝手で気が引ける。

誰かが寝ている間に絞め殺してくれたなら、こんなに楽なことはない。

それはもう、「自己責任」や「自己決定権」をすべて手放した卑怯で臆病な願望だ。

だが、そう祈らずにいられないほど、人生は苛酷だ。

 

入院中に、佐藤優氏から差し入れてもらったダンテの「地獄変」を読んだ。

「地獄」から始まって「煉獄」へ、そして「天国」へと至る旅路を綴ったこの物語は、天国に近づけば近づくほどに退屈になっていき、ついには「天国って腐りそう」と思ってしまった。

確かに私は今、地獄(まぁ、それもまた自分の作った地獄だが)にいて、退屈するどころではない「生の苦しみ」に苛まれている。

この先に天国があると言われても、そんな場所には行きたくないが、だからといって地獄に留まり続ける気力もない。

 

私は「無」になりたいのだ。

喜びも苦しみもいらない、何も感じず何も考えないですむ「無」になりたい。

私を苦しめているこの地獄の正体は「私」という自我ではないか。

「私」を手放せば、私は楽になる。

だが、生きている限り、私は「私」を手放せないのではないか。

 

私が「私」のために生きる存在であるのなら、「私」を手放すことは「生きる理由」を手放すことになる。

いっそ「生きる理由」など手放してしまえ。

私は誰のためにも生きない。

自分ためにすら。

ただ、死なずに「無」になって、ぼんやりと世界を他人事のように眺める存在になれないものか。

 

まぁ、それは仏教で言うところの「悟りの境地」に近いのかもしれない。

要するに「解脱」だ。

輪廻から解脱するということは、「私」から解脱するということだろう。

永遠に「私」を抱えて生き続けることからの解脱。

その先にあるのは、広大な「無」だ。

 

私はそこに辿り着きたいと、心の底から願ったのだった。

(つづく)

 

イラスト:トシダナルホ

 

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編集・構成 MOC(モック)編集部
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PROFILE

中村 うさぎ

1958年生まれ。エッセイスト。福岡県出身。
同志社大学文学部英文学科卒業。
1991年ライトノベルでデビュー。
以降エッセイストとして、買い物依存症やホストクラブ通い、整形美容、デリヘル勤務などの体験を書く。

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