2019年は令和元年。
新たな一歩を踏み出す記念すべき一年です。
新時代の幕開けだからこそ、日本の歴史の原点を振り返る意義があるはず。
忌部文化研究会会長の林博章先生いわく、「原点回帰」は非常に大切なのだそう。
徳島に存在したマルチ集団・忌部氏の研究を通して、林先生の頭によぎる古代日本像とは――?
神社の由来、海の道、自然との調和など日本建国から現代までに続く、歴史ロマン感じるお話を伺ってきました。
インタビュー前半では、日本建国においてマルチに活躍する忌部氏の有能っぷりに驚かされました。
視野が広い人たちだったようですね。
特に、農業革新では自然界とのバランスを考えて計画的に動いていたように思えます。
僕が忌部氏に行き当たったのも、環境問題が始まりです。
環境や平和について考えていたら、忌部氏の研究をするようになりました。
なぜなら環境問題などを考えるうえで特に重要だったのが、歴史の原点に戻ることだと気づいたから。
歴史の原点がわからないままでは、次の時代に進むのがとても大変です。
過去をきちんと知っておくことで、現在、未来も見えてくるでしょう。
林先生の著書を見ていると、忌部氏を軸としてあらゆる知識が集約されていることに驚かされます。
古事記や日本書紀は文献学ですね。
僕は、考古学、民俗学、文化人類学、地理、地名、伝承……あらゆる学問を網羅しながら歴史を説明しようと試みています。
現地を歩いて地理を確認するのも非常に大切ですね。
日本を旅してみると数多の神社がありますよね。
神社はどのようにして置かれるようになったのでしょう。
まさかここにも忌部氏が……?!
わかりやすい言い方ですと「神社」ですが、忌部氏が当時の人々に教えたのは「鎮守の森を守る」ということでした。
神社の建物があることが大切なのではありません。
いわば森そのものが神社で、森を守るために社を建てました。
忌部氏は「森を守らないと生態系が崩れ、危ない」と考えたのでしょう。
そして森にお供え物をして、祈り始めたのが神社の始まりです。
現代の土地感覚で歩くと「なぜこんな辺鄙なところに神社が?」と不思議になることも少なくありませんが、言われてみると……。
実際に神社を訪れてみると、どこの神社でもそばに森があるでしょう。
神社の周りにある社殿は仏教建築ですが、もともとは森を守るために祭壇を作り、祈っていました。
だから「社」と書いて「もり」と読ませるんです。
神社がある土地を歩くとよくわかりますよ。
面白いですね~。
もっと古代の謎に迫りたい!
古事記の国生みの順番は、オノコロ島、淡路島、四国と続きますよね。
これはなぜでしょう?
なんら難しくはありませんよ。
地図を見てみてください。
吉野川流域で勢力を持ったのが忌部氏ですが、徳島からだと国生みの風景が見えるんです。
古事記にも作者はいます。
おそらく作者は徳島から見た風景として、国生みを書いたのでしょう。
なぜなら、忌部氏の勢力圏である吉野川の真上に、オノコロ島だとされる沼島がありますから。
その隣にイザナギとイザナミが掻きまわしたという鳴門海峡が位置し、隣には淡路島。
沼島とオノコロ島、淡路穂狭別島(あわじのほのさわけのしま)の間を通って、徳島から奈良へとあらゆる文化や技術が持ち込まれていきました。
その伝承が奈良時代に宮廷で伝承化され、古事記に編入されていったのでしょうね。
へ~!
地理からそこまでわかるんですね。
古代日本の原型は、吉野川流域に存在した忌部氏らの原風景だったとは。
真実はシンプルなんです。
難しい説明はしなくていいんですよね。
シンプルなような難しいような。
でも面白いです。
林先生は日本の古代史を研究するときも、研究補足のために海外にまで飛んでいかれるそうですね。
中国や東南アジアなどですね。
僕が一番研究したのは照葉樹林文化論です。
国立民族博物館の館長を務めた佐々木高明先生や農学者の中尾佐助先生も、日本文化のルーツはどこにあるのかを論じていました。
日本は海に囲まれている国です。
ならば太古の海の道で運ばれたものが、重層構造的に積み重なったのではないかと考えられてきました。
たとえば神社なら照葉樹林が生えています。
神社の原型があるとされる中国南部にも照葉樹林があるんです。
つまり中国南部長江から雲南省、タイ、ラオス、ベトナムのあたりに日本のルーツがあるのかもしれない。
この観点で佐々木高明先生などが論文をたくさん出しています。
僕もそれなら現地を訪れてみようと思い、実際に行ってきました。
古代の海の道というと、黒潮に乗って?
長江から北九州へ流れる経路か、黒潮。
両方でしょうね。
日本の神話もそちらからやってきた可能性があります。
天孫降臨神話以外の神話はほとんど照葉樹林の文化ルートからもたらされたものなんです。
海からの流れは想像以上に速いですよ。
川があって物が運べない経路に行き当たったりしますので、海からの方が早いこともあります。
実際に検証した研究者がいるように、その場所を自分の足で歩いたり目で見たりすると、さまざまな謎が解けてきますよ。
そんな風にダイナミックな流れに乗って海の向こうからやってきたものを、日本で洗練させていったのでしょう。
農耕民族であり、海洋文化からも刺激を受けてきた古代日本。
想像以上に大きなうねりの中で歴史は生まれていったんですね。
北方からも民族が来ていたと思われますよ。
スキタイ、シベリア、高句麗などです。
騎馬民族もいたでしょう。
北からの文化と南からの文化が合体し、日本で織りなしてまた文化が生まれていった。
壮大なロマンですね。
日本は「和」の国ですが、遥か昔から調和の精神があったのかもしれません。
今の日本を成すものすべてが日本で生まれたわけではありませんからね。
京都大学名誉教授・上田正昭先生の言葉を借りれば、日本は「取捨選択の文化」の国。
いいものを取り入れて悪いものは入れない。
ほかの共同体の文化をうまいこと取捨選択しながら重層構造的に積み重ねてきたんです。
忌部氏などが積み重ねてきた日本を、これからも持続可能な国にしていくためには?
自然への感謝が必要ですね。
この秋に行われる大嘗祭は自然への感謝の儀式です。
天皇が自然に対して
「ありがとうございます。
自然の恵みのおかげで食べさせていただいています」
と、日本の代表として感謝します。
その意義が社会に伝わっているのでしょうか。
費用のことばかり取り上げられているように思えます。
科学文明ばかりに目がいって、忘れてしまっていることがありますね。
私たちは農業を営み、自然の力で生きてきました。
そういったことを大嘗祭で感謝します。
大嘗祭では、大事なところを見てほしいですね。
伝統的な祭祀ですが、とても現代性があるんですね。
神話が現代の合わせ鏡のよう。
大嘗祭でお米と共に使用される麁服(あらたえ)もそうです。現代は大量生産が流行し「使ったら捨てる」の文化です。
古代織物工業の話によると、一着を作るのに三か月以上かかるそうです。
そして当時は、着るものがないがために人が死んでいった。
食べ物がないから死んでしまうのではありません。
つまり、着るものはいつでも手に入るわけではなかった。
服を着ているのはもともと生存のため。
現代日本にはない観点でハっとさせられます。
「衣食住」は、食べ物が先じゃないことに気づきましたか。
米も大事ですが、着るものも大事。
日本では春夏秋冬、梅雨など気候に応じて服を作らないと生きていけなかったのです。
その原点が麻でした。ところが最近は、着るものが大事ということが忘れられているように思えます。
産業革命だって、始まりは何だったでしょう。
産業革命といえばイギリスですね。
ええ、マンチェスターで綿工業から始まりましたね。
日本の産業革命だって、大阪の紡績業からです。
こういった歴史があるのに、着るものの重要性が忘れられがちですよ。
けれど、大量生産もまた大切です。
着るものには2種類が必要で、大量生産はそのひとつ。
大量生産がなかったら人々は生きていけません。
もうひとつは魂を入れるものとしての着るもので、麁服です。
麁服は、種をまくところから織るまで、すべての原点を経ています。
何かがピンチになったりおかしくなったら、もとに戻ることがとても大事ですが、そのためには原点が必要なんですよ。
ですから、大量生産と麁服の両輪が大事なのだと思います。
「服なんて安けりゃいい」と思われがちですが、着るものに魂が入ってないと生き方にも影響があるのかもしれませんね。
そういった気づきから原点に戻ると、もっといいものができるんです。
しかし原点を残さないと戻れません。
おしまいです。科学技術で進んでも、原点のもとは残しておかないと。
日本なら大嘗祭や伊勢神宮がそういったもののひとつです。
歴史や歴史学は、未来を創るためにあります僕らの研究タイトルは、「日本の原点を見つめ、未来を創る」。
そこにしか、日本が生きていく方法がないように思えるんです。
未来に進むために必要なものは、原点。
令和という未来を進み始めた私たちも、歴史を振り返って日本の源を見つめ直すことが求められているのではないでしょうか。
阿波忌部氏、大嘗祭、調和。
人生100年時代の日本の在り方を、古代日本の原点を探しながら考えていきましょう。
写真:小谷信介 文:MOC編集部
編集・構成 MOC(モック)編集部
人生100年時代を楽しむ、
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