多くの芸能人の才能を発掘してきた萩本欽一氏(以下、大将)。芸能界随一ともいえる“人を見る眼”をお持ちです。そんな大将に、仲間と共に成功を掴む秘訣についてお話を聞いてみました。バラエティー番組『欽ちゃんのどこまでやるの!?』のオーディション秘話、あのヒット曲誕生の舞台裏など、見逃せないエピソード満載です。
――多くの高視聴率バラエティー番組を生み出してこられましたが、目標とする人物や今まで刺激を受けた存在というと?
ああなれたらといいな、というのは一杯あったねぇ!チャップリンのようになりたくて「ヨ~シ!俺も映画を作るぞ!」と目指していたけど、「全然かなわないや!」とすぐわかったの。
僕という人間は全然スゴイ奴じゃなくて、大体が間抜け。チャップリンに並ぼうというのは無理なんだ。だから考えたの。『チャップリンにも出来なかったことは何だろう』。彼がスゴかったのは映画であって、テレビ番組は作っていない。テレビなら僕はチャップリンに勝てるだろう!
ところが、いざテレビを制作しようと思っても、自分には出来るワケがないとすぐに結論がでた。なぜって、僕はホン(台本)を書けないんだもの。
かといって、な~んのことはなかった。ホンを書く奴を探してくりゃいいんだから。
――欽ちゃんファミリーを代表に、芸能界で多くの人材を育てあげましたよね。その第一手が作家だったとは。
育てた、なんてことはしていないよ。僕は一歩進んだら二歩下がる人間。さらにもう一歩下がって思いついたのが、ホンを書ける人間を作ればいいってことだっただけ。
若い奴を集めて、彼らをパジャマ党(萩本氏が集めた若者による構成作家集団)と名付けた。それまでのテレビといえば、台本は作家先生に頭を下げて書いてもらっていた。僕はテレビに初めて出演することになった時、セリフをとばしてしまい、作家先生を怒らせてクビになったことがあった。
だけど自分で作った作家相手なら、セリフをとばしちゃっても「ごめんね!」で済むんじゃないかしら。こ~んな理由で若い奴らを集めたというわけ。
だから僕は作家を育てたんじゃないの。怒られないために作家を作ったんだ。パジャマ党って、日大闘争のおかげで大学に通えなくなった奴らの集まりだった。そこで僕は「みんな中退したら?」って提案したんだ。大学を卒業するとそれ(大卒)が武器になるでしょう。中退したら二度と(元の人生には)戻れない。そういう人間を選んだんだ。そしたらみんな、学校に行けないからそのまま作家になった。
――人生、崖っぷち!つい、何かあった時のためのセーフティーネットを確保しておきたくなるものですが…。
パジャマ党の作家たちをいよいよ(仕事の世界へと)出すときは、僕なりに運が来るようにしましたよ。
「石の上にも三年」ということわざがありますけど、僕のところでは五年。五年の間、原稿用紙を使ったりテレビについて語ったりだとか、作家修行らしいことはしないまんま。麻雀、将棋、七並べ、毎日それで遊んでもらいました。
そうすると若い奴は、「オレ、作家になれんのかなぁ」って不安になる。「何でオレ、ここで飯を食っているんだろう。困ったなぁ」と途方に暮れて、大体は辞めていきました。
石の上にも五年目、残った奴に声をかけてみたの。「不安だったろ。原稿用紙を見たことない、作家になるための話もしてくれない。麻雀、将棋、七並べ。過ぎていく無駄な時間に相当苦しんだろう。辞めようと思わなかった?」
すると「思いましたよ!でも、ここで辞めてもまたどこか探さなきゃならない。ほかのところでどうやって飯を食うか考えるのも大変。そういうの考えるよりは、ここにいた方がまだいいかな~、という結論に達しました」だって。
――無駄に思える時間のなかで、その若者たちが得たものというと?
それが運ってもんなんだ。五年間も待った彼らには、もう僕から覚えさせることはない。何にも覚えていないそのまんまの状態で、テレビ局へ行ってもらうことにした。台本なんて書けやしないんだから当然、ディレクターに怒られる。
でもね、怒られるということはその実、仕事を好きになるということでもあるんだ。「バカヤロー!もっとちゃんとしたの書いてこい」と怒られて、あんなに嬉しがる作家はパジャマ党以外ほかにいなかった。「スイマセン!書き直します!!」って嬉しそうにするんだね。ああいう作家はなかなかいないよ、言われたことを素直に受け止めるようなさ。
僕が教えたのは、台本の書き方じゃない。自分のところへいかに仕事がたくさん来るのか、ということ。まずはプロデューサー、ディレクターなど、人に好かれなきゃ。
テレビの世界で一番大切なのは運、次に人に好かれること、それだけだよ。才能?そういうのは徐々に出てくりゃいいんじゃないかな。運があって、人に好かれていれば、そのうち才能は出てくるよ。
――麻雀、七並べ、将棋にどんな意味があったのでしょう。
人間は無駄なことを仕事として与えられると、「何のために自分はこの会社にいるの?」とすぐ疑うでしょう。
お茶を入れてちょうだいと頼まれても、「お茶を入れに来たんじゃないんだ!」と。ね?でもそういうことではないの。お茶を汲むのを嫌がっていないか、実験的に見ているの。無駄に思えるお茶を走って淹れてきてくれる奴がいたら、『こいつ、かわいいな。真剣に仕事を教えよう』と思うものなんだねぇ。
僕が東洋劇場で修行していた頃に、先輩が教えてくれたのがそういうことだった。仕事が出来るからじゃない、人間としてかわいげがあるからそばに置いておきたくなる。僕が演出家の先生からコメディアンを辞めろと言われた時も、助け舟を出してくれたのは先輩。「アイツ(萩本)には才能はない。だけど、あんなに気持ちのいい『ハイ!』という返事をする奴はほかにはいない」と、先生に頼んでくれた。
それを聞いた先生が「この仕事は、誰かに応援してもらう仕事なんだ。お前みたいに才能がなくて下手な奴を応援してくれる人がいる。辞めるんじゃない」と言ったんだ。
自分がそうだったからわかるんだけど、間抜けな子にはどう教えたって無理なところはある。けれども、その人物が持っているいいところは伸ばしてあげたくなるよね。
――芸能界でも随一、多くの才能を磨いてこられましたね。弟子ともいえる方々がテレビで活躍されて…。
弟子なんていない!僕がコメディアンを育てたことはないですよ。
(冠の)テレビ番組を持っていたとして、すべて自分でやるのは面倒くさいでしょ。なるべくアイツら(欽ちゃんファミリー)が勝手に笑わせてくれるようにするの。すると僕は楽だし、見ている人も楽しい。僕が毎回おんな~じようなことをしていたら、飽きられるよ。ですから僕は芸を教えたんじゃない。「この番組ではこうしてくれ」って、お願いしていただけ。
僕は育てた覚えがないし、芸を教えた覚えもない。だからみんな、お歳暮を贈ってきたり年賀状を書いたりは、やめてくれぇ~!そういうのをもらうと「僕が育てた」みたいな自覚が出てきちゃって、「お歳暮欲しいな」って思うようになるでしょ(笑)。お歳暮と年賀状はやめてちょうだいとお願いしているから誰もよこさないよ。
みんなは弟子じゃなく、僕と一緒に番組を闘った人たちなんだ。(番組が)終わってからが長いんだね。もっと良くするために、「こうしよう」「あれだけはやめてくれ」「もっと面白いことは、コッチだよ」なんてことは伝えたけど。
――“次へ”を一緒に走っていく仲間なんですね。
そうそう!次へのステップを毎回考えて・・・。いや、考えるというより、その人の出来に何かを足していくという感じ。だから僕は育ててなんかいないの。だって現に育っていないでしょう、見栄晴は。
――えっ・・・と!
まだ間抜けやってますよ、見栄晴は!育っていたなら、もっとたくさん仕事しているでしょ!
番組では(よくするための大事なことだけを)教えたけど、その後に“生きていくこと”については教えていないもの。生きていくことについてまで教えたなら「面倒を見た」とか「育てた」とか言えるんだろうけどね。
その代わり、人に物語を作ってあげたい。そうそう、高校生だった見栄晴にはまだ、な~んにもなかった。
――1982年、ホームドラマ形式のバラエティー番組『欽どこ』のリニューアルオーディションが開催されました。番組内では欽ちゃんをお父さんとして、母親や子どもたちを演じるキャストが必要でしたね。多くの参加者の中から、見栄晴さんを選んだ理由は?
オーディション参加者の中で一番ぼ~っとしていたのが、見栄晴。そこが番組にマッチするんじゃないかと思ったんだ。僕が実際に会った参加者は数十人だったけど、ディレクターはそれまでに百人くらい見てきた。
僕とディレクターとで参加者の名簿を見ながら、「いいなと思う一人にマルをつけてみよう」として見せ合いっこしたら、二人とも見栄晴にマルを付けていたんだ。
「それならこの子にしよう」とディレクターが決めようとしたんだけど、こういうのはやっぱり物語を作らなくちゃ。だから「ちょっと待って!最終候補同士でジャンケンにしてくれ」とお願いした。
僕は『アイツ(見栄晴)は絶対パーしか出さない!』と、100%確信していた。
――大将の目にはすでに、大きく開いた掌が見えていた(笑)。
だけど、ジャンケンは運次第だから、相手がグーを出すかどうかはわからない。ディレクターは「いやしかし・・・」と尚さら迷うけど、僕はもうジャンケンをすると決めていた。
ジャ~ンケ~ン・・・ポン!見栄晴はパーを出したよ、相手はどうだ?!
・・・グーだ。
やっぱり!という結果だったけど、みんなからすれば『萩本欽一が見栄晴に賭けた理由は一体なんだろう』と、不思議だったみたい。有名になった見栄晴は、こう尋ねられるようになった。「あなたはどうやってオーディションで選ばれたのですか?」
すると見栄晴はアドリブで答えたの。「ジャンケンで決まりました。しかもパーで!」って(『頭の上でパーをかざす見栄晴さん』の真似をしながら語る大将)。とってもいい画だった。それを見て、見栄晴にいい物語を足してあげられたなぁと思えたんだ。
――大将がしているのは、あくまで物語を足しているだけ。人間としての成長は自分自身でするもの、ということですね。
僕は人に「もっと頑張れ」だなんて言わないよ。頑張んなくたって別にいいの、君の人生、お好きにしてってこと。
それでもみんなが「自分は欽ちゃんファミリーです」と言ってくれるのは、ほんとラッキー!僕、な~んにも教えていないのにねぇ。
会社だってそうだよ。ああしろこうしろって、先輩が後輩に全部教えていたら、パッと気づいたときには後輩に追い抜かれていたり、会社を乗っ取られているよ。全部を教えるのって、危ないよ~!大事なことだけ教えるのがいいよね。
――人を育てている自覚はないと仰いますが、ものごとを教えるときに意識しているポイントはありますか?
ちゃんとした言葉では教えない!「1+1=2」というようなキチンとした答えは出さないでおく。たとえば舞台の稽古中、袖から登場してもらう時に何か言うとして「もっと元気よく出ろ」なんて風には伝えないの。「お前な、あじゃっとした感じがしているから、ドバッって出ろ」と言う。
すると言われた方はワケわかんない。僕がはっきりわかるような言葉を使わないからだね。そこでADだとか周りの人に相談する。「何なんすかね、ドバッって・・・?」聞かれた方は、「アレだよ、アレ。ドバッてことは、元気よく」と答える。また別の人に尋ねると、「勢いよくってことじゃないか」と答えてくれる。
そういう風に、誰かに教わっていけばいいんじゃないかな。するといろいろな考え方を知るでしょ。
そうしていって結局は、自分が思ったようにやりゃいいんだよね。「ドバッ」っていうところに、自分の好きな言葉を当てはめればいいんだ。
――大将と共演された方は多くいますが、特に印象的なのが真屋順子(女優。1942-2017)さんです。『欽どこ』のお母さん役でレギュラー出演をする姿からは、ドラマでの彼女とはまったく異なる、新しい魅力が出ていらっしゃいました。
順子さんはドラマでは悪い役ばかり演じていたでしょう(ヒロインの敵役を演じた真屋さんは当時、視聴者から反感を買っていた)。あんな悪役を引き受けてくれる女優さんって、相当いい人だろうと思っていたんだ。だって普通はああいう役を嫌がるもの。
そんな彼女なら、お笑い番組を嬉しそうにやってくれるんじゃないかと考えた。『欽どこ』がヒットしたのは、順子さんの力だよね。順子さんがそれまでに積み重ねた苦労があの番組を育ててくれたんだ。
僕、順子さんのお母さんにお会いしたことがあったの。旦那さんのお母さんと順子さんのお母さん、順子さんは二人のお母さんと一緒に住んでいたんだって。ある時、お母さんたちが『オールスター歌合戦』を観に来てくれた。すると僕と向かい合った途端、二人が涙をぽろぽろっと流しだした。
「チョットチョット。これからバラエティーをやるんですよ。どうして泣いてるのかわかんないけど、その涙止めてもらえます~?」と顔を覗き込んだら、「欽ちゃんを見ると、涙が出るの」と言ってまたぽろぽろ。
涙の理由はこういうことだった。「家でテレビを見ていても、順子さんがいつも悲しい役をやっていた。そういう時は家族みんな、会話がなくなっていたのよ。でも欽ちゃんの番組を観終わった後なら、笑って会話が出来る。そんな幸せなお茶の間になったの。だから、欽ちゃんを見るとなんだか涙が出ちゃう」
実は僕、番組で順子さんに悪いことをしているんじゃないか、と不安な気持ちがしていたんだけど、お母さんたちの言葉を聞いたら『な~んだ、全然よかったんじゃない?』って、僕まで幸せな気分になれたんだ。
――その人物のいいところは、はっきりとは見えなくとも、これまで積み上げたきたことから滲み出ているのかもしれません。そして、その滲みをキャッチして引っ張り上げてくれるのが、大将みたいな人ですね。
あとは、勝負運!番組を始める時には勝負強い奴に任せます。しかし、勝負強くない奴は持続性があるんです。ずっと番組を続けていきたいなら、選手交代して勝負運のない奴に任せる。
そして狡くない人間がいいね。あとで裏切られるとガッカリする。損得抜きでスタートした人間はどんなにたくさんいいことを教えても、ずぅっとそばにいる。欽ちゃんファミリーって、トコトコ出ていった奴はいないんだ。間抜けな子が多いんだねぇ(笑)。自分が有名になったことを不思議がっているような人間たちばかりだもの。でも間抜けでもいいの、僕が見るのは、その人間の運だから。
四十数年前、うちの会社に「欽ちゃんが好きで事務所に来ました!」と、若いのが二人やって来ました。「その二人、いい顔してるの」と聞いたら、割とかわいい顔してると言う。それなら芸能界に入るのもいいかもしれない。そこで僕は「そうかぁ。だとしたら今は僕に会わせるんじゃないよ」と、まだ会わないことに決めたんだ。その若者二人というのが関根(関根勤)と小堺(小堺一機)。
――関根さん、小堺さんといえば今や芸能界で活躍する大ベテランですが、どうしてすぐに会おうとしなかったのですか?
大きいことをやるときは、近くにしないの。必ず遠くから。「欽ちゃんと仕事をしたくて事務所に来ました」って、とても近いでしょう。五年間は僕の前には連れてこないように、マネージャーに頼みました。それともうひとつ、彼らのための仕事を取らなかった。
事務所に入れば仕事を取ってもらえる、会社に入れば仕事を作ってもらえると、人は思うでしょう。そういうことが世間で当たり前だと思われているけど、うちの会社は仕事を取らない。そのことを(身をもって)知った方がいい。「欽ちゃんの会社は面倒を見てくれないや」とすぐに辞めるような人間なら、面倒を見ても無駄だよ。
だけどね、「何も面倒を見てくれないなぁ、困ったぞ、どうしようかな」と悩んでいる人には運が来るんだ。
――自分の頭で考えて、這い上がろうとするパワーが運に通ずるのでしょうか。
それもあるし、そこには必ず“人”の存在があるの。
関根と小堺がうちに来てから四年の月日が過ぎた頃、僕のマネージャーが「彼ら、もう五年目になりますよ」と話題にした。話を聞いてみると、二人は当初、困りながらも会社近くの喫茶店に行ってみたらしい。「ここで、ボクら二人に(ネタを)やらせてください!」と、店主に毎日頼み込んでいたんだって。しつこいもんだから「うるせぇなー!もう勝手にやれ」と、店主は根負け。
会社が世話をみてやったんじゃない、自分たちで考えて動いていたんです。
「そろそろ彼らを連れてきていいですか」と、マネージャーが僕に聞くから「僕の前には連れてこなくていいよ。テレビ局にすぐ連れていって。もう合格!」と答えたの。そうして二人は『欽どこ』に出ることになった。
――関根さんと小堺さんは、テレビ番組『欽どこ』の前座をきっかけに、人気者になりました。初めてテレビに出演させるときは、流石に何かフォローなどをしました?
ううん。ディレクターに「こいつらが面白いかどうかは知らない」って言って預けただけ。だって僕が面倒をみると、コネを使ったことになるでしょう。コネは芸能界の悪い癖!
「彼らのことを面白いと思ったら(テレビで)流してください、面白くなかったら流さなくてよい」と頼んだ。半年後、関根と小堺の姿がテレビに流れるようになった。
僕はこういうことには口を出さないんだね。ネタをこうしろとか、時間がどうのとかは指示しない。だから彼らを育てたのは、僕じゃなくてディレクターかもしれないねぇ。
同じようにディレクターに預けた斎藤清六は、「村の時間の時間です」に二年かかった!
――実際に面と向かっいあって、いろいろと確認してから決めたくはなりませんか?
人に会ってからどうこうっていうのは、失礼だよ~。会社ではさ、面接してから決めるじゃない。だけど会えば相手の人となりがわかるだなんて、そんなことは・・・ないよね。
それは修行が足らないということでしょう。会わなきゃわからないなんて、間抜け。それなりのものをふたつみっつ書いてもらったり、見せてもらったりしただけで、わかるものはあるよ。
関根と小堺は、僕が一番嫌いな芸風だからね。好きじゃないの(笑)。僕は好きではないんだけれども、テレビを見る人は好きなんだから、全然いいんです。僕に似なくてよかったんじゃないかな。彼らと一緒に仕事をしていると、気持ちがいいんだ。
――人生のキーワードとなるのが“運”である、とよく仰っていますね。運は、どんな風に舞い込むのでしょう。
頭のいい人、お勉強ができる人は自分の努力で頑張って、今の状態へ来ているから、なかなか運を信じないよね。一方、間抜けな人はもう無理なんだから(笑)。努力ばかりでは来れない人っているじゃない。間抜けな人が頭のいい人に勝つには、運に賭けるのがよい。
すべてが運ですから、僕の人生。番組を作るのもそう、才能よりも運。運がいいというのは、“運がある、運になる、運が来る”ということ。
もし学校でいじめられているなら、その分大きな運があるし、運がやって来ると思うんです。社会人になったらぶっちぎりですよ!神様はね、いじめられてばかりのままで(その人を放っておく)なんてことはしない。
いい大学に入ってごらん。そこで運を一つ使っているの。その後の人生、なかなか当たんないよ、あと二回しか当たらない(笑)!そこにつけていい会社に入ったら、二回も運を使ってるんだからね。
成功は遠くからやってくるらしい。だけど遠い分、そこまでの道のりに物語がたくさん詰まっている。「無駄があっていい、悩みがあっていい。だけど自分の足で進んでいこう」萩本氏の言葉を聞いていると、そんな風に励まされているような気がしてきました。
人生100年時代を迎えた現代人は、これからいかにして物語を紡いでいくのでしょう。そのヒントはインタビュー最終回にて紹介します。
写真:田形千紘 文:鈴木舞
編集・構成 MOC(モック)編集部
人生100年時代を楽しむ、
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