若かりし頃から映画と歌が好きだったという里見浩太朗さん。
客席から見るスクリーンのなかでは名だたるスターが輝いていたそう。
高校生のときには「NHKのど自慢」に出演し、県大会まで進んだことがあったとか。
高校を卒業後、東京築地で働きはじめた里見青年。
早朝に起床して汗水たらし、夕方からは歌のレッスンをする日々を過ごします。
すると里見さんには内緒で、「東映ニューフェイス」の新人募集オーディションに、知り合いが写真と書類を送っていたのです。
見事合格を果たし、俳優人生が始まります。
新人発掘の一大オーディション「東映ニューフェイス」の三期生として芸能界入りをされましたね。
華々しいデビューが待っているかと思いきや、京都の東映撮影所ではまず大部屋に入れられたと伺っていますが?
みんな始めは大部屋なんですよ!
高倉健さんや佐久間良子さんだってそう。
部屋には、毎日三時頃に翌日の予定が出るんです。
名前の横に、「籠屋1」とか「仕出し(エキストラ)A」ってね。
それを見て『その役ならこのカツラだな』と自分で撮影準備をして現場に向かっていました。
『俺たちニューフェイスだろ?! なんで学生アルバイトと同じ扱いなんだよ』と思いましたねぇ。
でもそこから得るものはあったんです。
ものごとを覚える、俳優や監督や助監督を覚える、小道具の持ち方置き方、羽二重の付け方を覚える。
撮影に必要なあらゆる事柄を覚えるために、その他大勢の役、通行人の役など、端役から経験させてもらっていたんです。
とはいえ当時は矛盾を少し感じてはいましたよ。
東映ニューフェイスの書類選考には何万人もの応募がありました。
書類選考を通過して東映撮影所で試験を受けたのは200人。
最終的には30人が残った。
オーディションに合格してから京都の撮影所に入るまでの間に、俳優座(日本を代表する劇団のひとつ。1944設立)で勉強をしてきたんです。
仲代達矢、平幹二朗とかも俳優座出身でしょう。
ああいういい役者を教えた先生がいる学校で教わりました。
だから『俺は学生とは違うんだぞ』なんてね。
僕は東映の委託生として俳優座に通っていたけど、日活からは小林旭とか二谷英明が来ていました。
今でも「旭!」「里見!」と呼び合う仲ですよ、ゴルフ場でね(笑)。
太秦にある東映京都撮影所というと、歴史が古く、職人気質のいい製作人が勢ぞろい。
当時は特にパワフルで荒っぽいエネルギーに溢れていたイメージがあります。
荒いというよりも、とにかく忙しい!
映画をどんどんどんどん作らなきゃいけなかったんですよ。
東映は、毎週二本立てで映画を上映していましたから。
時代劇二本の時もあれば、時代劇と大泉(東映東京撮影所)の現代劇とで一本ずつの上映スケジュールもありました。
作品は七日間は上映する。
だけど、次の週には別の作品を上映しなくちゃならない。
週一ペースなので、今のテレビと同じだね。
365日を七日で割ると52週、二本必要だから年間104本を撮らなくちゃ。
そのうち東映は、京都で70本くらい作っていました。
となると、会社としては俳優も監督もスタッフもたくさん欲しい。
昨日まで助監督だった人が、次の日には監督に出世しているような状況でした。
戦国時代ですよ。しかし、いい作品なら続編が次々と作られるんです。
御大と呼ばれていた片岡千恵蔵さんと市川右太衛門さんの映画だと、制作費は当時で一億円くらい。
萬屋錦之介さん(1932-1997。歌舞伎界から映画界へと進出した時代劇俳優)で八千万あたり。
僕らで五千万。
土曜日に上映すると、月曜には興行成績が出される。
渋谷と丸の内の東映で、いくら儲かったかがすぐ分かるんだ。
『ヨシ、及第点をとったぞ』と安心したりね。予算よりあがらない人もいましたよ。
映画黄金期の撮影所は、さながら戦国時代だった!
そんな中に新人俳優として入っていくのは厳しいものがありそうですが……。
撮影所に入ると、「ニューフェイス部屋」というのがありました。
撮影所の中でも一番古くてうるさい人が座しているんです。
昔からいるベテランは、おじいさんばっかり。
仕出しもするし、役も演じる。
「おい、カツラをメーク部屋に持ってこい」「衣装を畳んでおけ」なんて言ってくる先輩がいるんですよ。
でもね、「羽二重(カツラの下地)ってのはこうするもんだ」「衣装の畳み方、見とけよ」と、教えてくれる先輩もいました。
怠けもので、予定が出されているのに現場に行かず寝ている先輩もいた。
いい先輩と悪い(笑)先輩、両方入り乱れていたのがニューフェイス部屋でした。
役者が会社との専属契約者になると、安くてもギャランティーは一本五万円はもらえました。
するとロケーションに行くときはハイヤーが出るんです。
契約者じゃない役者はバス。
ニューフェイス部屋は仕出しもしなくちゃいけないけど、役柄はついたんですね。
だけど僕は、役がついてもまだまだバス!
主役になったところでハイヤーが出たのを覚えています。
東映には、「剣会(つるぎかい)」というのがあってね。
剣会というのは50人くらいの殺陣集団。
そこに入るには立ち回りを勉強し、殺陣技術を身に付けなくちゃいけない。
ベテランでは60歳くらいの方もいました。
東映京都撮影所の俳優になったのなら、剣会に入ることが目標。
殺陣の立ち回りができて役がつくというのは、剣会といえばこそだったんです。
殺陣といえば里見さんは2013年の舞台『真田十勇士』でも、徳川家康として華麗な腕前を披露されました。
京都撮影所で吸収したものは、近年の演技にも生かされているのでしょうね。
しかし映画館の客席にいた青年がオーディションに合格し、映画の中の俳優になった。
いままでの日常とは一変する世界だったのだろうと思います。
俳優人生が始まって、辞めようと思ったことはあったのでしょうか。
『辞めよう』と思ったのはね、京都に入った最初の頃!
俳優座で半年間勉強した後、東映に「君たちは十月になったら撮影所に行ってもらいます。
時代劇をやりたい人は京都へ、現代劇をやってみたい人は大泉へ」と言われたんだ。
決めてくれないのですかと尋ねてみたら「自分の道は自分で決めなさい」と。
それはもう悩みましたよ。
目の前にお椀が二つあるけれど、片方には百万円、もう片方にはりんご一個が入っている、さてどちらを手に取るか。
運命や人生といったものが、これから薔薇色に輝くのか、地獄に落ちるのか、自分で選びなさいと迫られているのと同じじゃないですか。
そして選んだのが京都です。
なぜならこのまま東京にいては生活していけないと考えたから。
当時の給料は六千円、実際の額はもっと多かったらしいんだけど、俳優座での勉強賃を引かれたらそのくらいでした。
昭和30年代、大学での初任給が一万三千円です。
僕はその半分しかもらえていなかった。
それなら、撮影所に行くようになれば給料は増えるのかと聞いてみると「二千円あがる」というんだ。
八千円もらえて、源泉徴収を引かれたら七千二百円になります。そこから家賃が引かれるでしょう。
当時は東京でどんなに狭いアパートを借りても、家賃に四千円はかかりました。
ワンルームアパートでそのくらいです。
さらに電車賃を差っ引いたら? 食べる分のお金がなくなっちゃう……。
成功が約束されているスターの卵が、とても現実的な経済感覚をお持ちだったんですね(笑)。
しっかりした若者だったんだろうなというのが伺えます。
東京での暮らしに、そういう不安があったんです。
京都に行くとしたらどうなのかと尋ねました。
そこで驚いたのが、京都には独身寮があるということ!
「朝晩の食費に三千円は払ってもらうけど、六畳一間で家賃はタダ」
なんて、嬉しいじゃない。
そうして僕の足は京都に向かったんです。
独身寮は東山にありました。
京都には鴨川が流れていますね。
三条大橋、四条大橋が横に走る。
この三条大橋から歩いて十分ほどのところに、都ホテルがあって、すぐそばに独身寮が建っていた。
撮影所は太秦ですから、京都の東の端から西の端までバスで行き来していたんです。
バスの定期代は一か月千二百円でした。
七千二百円の給料から、食事代と定期代を引いたらちょうど三千円が手元に残ります。
そしてご飯は朝晩必ず食べられる!
夜間の撮影があると、東映は食券をくれるんですよ。
それでカレーライスなんかを食べたりしてね。
昼飯だけは自分でなんとかしないといけないけど、『ヨ~シ! 京都でならなんとか生活できそうだ」という目算を立てて、人生の岐路を選んだんです。
もちろん時代劇にも興味はありましたけどね、ハッハッハ!
働き始めの頃って、思ったよりもかさむ食費や家賃のウエイトに驚くことはよくありますもんね。
誰もが知る名俳優も新人の時は同じ悩みを抱いていたなんて、ちょっと嬉しい……!
僕が東京じゃなくて京都を選んだのには理由がもうひとつあるんです。
ニューフェイス第三期合格者は女性が20人、男性は10人いたんです。
男の合格者のうち、背の高さで並ぶと僕は下から四番目。
当時でも180センチ以上の男が多くいましたからね。
背の高さで下から四人のうち、三人が京都を選んだんですよ。
慶応大学の男、明治大学の男 、そして僕という面子。
そうして京都の撮影所に行ってから「シマッタ!」と思ったのが、初めて浴衣に袖を通し、メークアップをし、羽二重を施してカツラを被ったときのこと。
「なんだコレ?! 似合わないじゃないか!」ってね。
デビュー当時のお写真を見ると、十分、爽やか美男子ですよ!
いやいや。
まっ……たく以て、似合っていなかった。
というのも、誰が被ったのかもわからないカツラを被ってしまったからだったんだね。
それから一か月が経って、きちんとした宣伝用のポートレートを撮ることになりました。
プロのメーキャップさんが僕らの前に現れて、
「あっちの彼は前髪が似合う。
こっちの彼は町人が似合う」
という風に、それぞれに似合うカツラを選んでくれて、メークで仕上げてくれました。
目張りもきちんと付けてもらってね!
昭和30年代の映画は、男もまつ毛を付けたんだ。
だから横から見ると、とっても綺麗。
宣伝写真を撮られた僕も、若侍然としてちゃんと綺麗になりました。
ポートレートを撮影し終わってカツラを外してみると、そこには『大川橋蔵』と明記してあった。
マネージャーさん:大川橋蔵(1929-1984。歌舞伎役者、時代劇俳優)さんはきちんとされていますから、たしかにカツラも安心だ(笑)。
偉大な先輩の、手入れが行き届いたカツラで無事ポートレートを撮影。
その後は数々の映画に出演され、着実に経験を積み重ねてこられました。
監督陣では、どういった方がいらしたのでしょう。
東映には、松田定次(1906-2003。戦前から戦後まで時代劇映画を手掛けたヒットメーカー)さんと内田吐夢(1898-1970。戦前から監督として活動し、時代劇から社会派作品を手掛けた)さんという監督がいらっしゃり、“巨匠”と称されていました。
松田監督は小津安二郎監督と同じ世代で育った方で、オーソドックスな時代劇を撮る方でした。
内田監督はどちらかというと左翼的な匂いがする作品を作るのがうまい監督です。
松田監督の助監督だったのが、沢島忠(1926-2018。映画監督、舞台演出家。時代劇、東映任侠、ひばり映画を数多く制作)さんです。
だけど沢島監督は、松田監督に対してそれはそれは反発しながらも助監督を続けていましたね。
たとえば夜道のシーンを撮影するとしましょう。
幽霊が出るとまことしやかに噂されているような通り道を、母親と幼子が歩いていく。
松田監督と沢島監督では、撮り方がまったく異なるんです。
『母子が歩いてくるのを、木陰からそ~っと待ち構える幽霊』という画を撮るのが、松田監督。
母子が木に寄って来たところへ、ぬっと幽霊が姿をあらわし、「キャーッ!」と驚きがくる。
役より先に、観客に幽霊を見せるんですね。
これは一般的な手法です。
ところが沢島監督はというと……。
幼子が母親に「なんだかこの道、気持ちが悪いよ」と不安げに訴える。
途端にバーン! と幽霊を登場させる。
たった1シーンですが、作風の違いは大きく出るのですね。
沢島監督といえば、里見さんや美空ひばりさんがご出演されている映画『ひばりの 森の石松(1960年公開)』も、引き込まれるような独特の吸引力を持った作品です。
タッタッタッタと進んでいく、観客に息つかせない作品ですね。
キャメラマンは伊藤武夫さん。
凄い方です。僕がとても驚いたのが、走る馬を撮影するシーンです。
当時のカメラはファインダーを覗き込みながら撮影します。
(自身も動きながら撮影していた)伊藤さんがカメラをふっと止めると、ドドドドドド……と疾走する馬でさえ、ちゃんとフレームに収まってくれた。
馬が止まったから、カメラも止まるんじゃないんですよ。
伊藤さんが撮ると、スピード感が段違いでした。
とてもやさしい人柄でね、大好きなキャメラマンです。
なるほど、難しいといわれる動物の撮影でも腕が光るキャメラマンだったんですね。
人間を撮っても、ピントを絶対外さず役者のキメをフレームから逃さないわけだ……、凄いです。
時代劇は迫力あるシーンが多く、戦や城下町の風景をクレーンを使って俯瞰から撮影することがありますね。
クレーンを使う撮影というのは、役者がひとりふたり出ているシーンであることはあまりないのです。
たくさんの人が出てくる場面で、グワっと上から望んで見せたい。
逆の場合もありますがね。
何度もテストをして、調整しなくちゃならないことがたくさんあるんです。
人の動きもそうですが、装置ひとつをとってもそう。
クレーン撮影と聞くと、上昇するカメラに目が向きがちでしょう。
クレーンは線路に乗っている装置です。
線路の後ろ方向へ下がりながら、上昇するという仕組み。
タイミングがものすごく大事というわけです。
クレーンは装置部さんが調整してくれます。
カメラはカメラ部が担当する。
そうやって部隊が分かれてひとつのシーンを撮影しているところも、映画作りの面白いところですよ。
雪の降るシーンでは、クレーンから雪を降らせるのは装置部さん、地面に降り積もった雪を準備するのは小道具さんが担当します。
いろいろな役割があるんです。
細分化されたチームの技術力が、細部までこだわった映画作りに繋がるのでしょうね。
東映はモノクロが主流だった時代から、カラー映画製作も手掛けていました。
当時は製作本数も多かった分、人手もたくさんいました。
そのため、監督やキャメラマン、照明技師、小道具さん、みんなが競争の真っただ中にいたんです。
弟子だったはずの人間が独立して師匠より偉くなる、なんてことはよくありました。
『俺一人でやっている』と、のうのうとはしていられない。
すべてが評価されますから、競争心の激しさは相当のものでした。
そういった環境で僕は、仕出し役から始まって先輩やスタッフに教わりながら、映画の世界での人生がようやく始まったんですね。
日本の映画黄金期は、下克上ありの“戦国時代”だった!
会社はチームで成り立つとはよく言われますが、華やかに思える映画の製作現場は、チームでありライバルであり、確かな技術を持ったプロフェッショナルがしのぎを削る空間だったようです。
そういった環境で着実に経験を積み、“時代劇といえばこの人・里見浩太朗”と成長していったのでしょう。
次回のインタビューでは、往年のスターたちとの公私まつわる交流、今年82歳を迎える里見さんの人生100年時代の生き方などを伺います。
写真:田形千紘 文:鈴木舞
撮影場所:銀座うかい亭
編集・構成 MOC(モック)編集部
人生100年時代を楽しむ、
大人の生き方マガジンMOC(モック)
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