東京・新宿を舞台に、ここまで2回に渡ってお届けしてきた西寺駅長のカレッジ・デイズ回想トーク。
今回は、その完結編をお届け。
運命的ともいえるさまざまな出会いを経て、ついに本気を出し始めたミュージシャン・西寺郷太。
長いトンネルを抜け、まぶしい光とともに自身が求めていた景色がぱっと開けていった、大学四年の春のお話を。
STARWAGONの湧井さんと出会って、下北沢に出入りするようになったのは、駅長にとって大きな出来事だったようですね。
そうですね、1995年4月から下北沢に毎晩ライヴを観に行ったりするようになって視界がパーッと開けていって。
そこでフリッパーズ・ギターのプロデューサーだったサロン・ミュージックの吉田仁さんだったり、当時ザ・コレクターズのメンバーだった小里誠さんだったり、プロフェッショナルな方々と出会えて優しくして頂いたのも大きな出来事でした。
でも、僕、当時、1995年春の段階でフリッパーズ・ギターをちゃんと聴いたことがなかったんですね。
すでに解散していましたし。
バンド名しか知らなくて。前年の夏にリリースされて大ヒットしていた小沢健二さんの『ライフ』すらアルバムでは聴いたことなくて、シングルの「ドアをノックするのは誰だ?」を街角で聴いて「ジャクソン・ファイヴのカバー?え?これ何?」って本当に驚いたくらいのレベルなんです(笑)。
なんか完全に断絶した世界で、それこそマーヴィン・ゲイ、スティーリー・ダン、ビートルズ、ストーンズ、デヴィッド・ボウイ、スモール・フェイセズ、ザ・フー。
あと大学生になってハマったのがツェッペリン。
もちろんスライ、アイズレー、プリンス、それから80年代のポップスとかニュー・ジャック・スウィング。
それから90年代ものだと、TLC、ジャネット、レニー・クラヴィッツ、テレンス・トレント・ダービーにU2、ジャミロクワイとかベックとかを聴いてました。
後はブランニュー・ヘヴィーズとか、ヤング・ディサイプルズとかオマーとかのいわゆるアシッド・ジャズ。
大学一年の夏休みにフランス留学した時にいっぱいCD買ってきてハマりまくりました
で、なんとなく日本語で歌われる日本人の音楽を聴いてなかったんです。
それまで音楽的なの繋がりといえば、大学のサークル周辺にいた人たちだけだったわけですもんね。
そうです。
周りの影響で文化が伝わる時代でした。
CD直接貸してもらったり。いわゆるコレクターズも、それこそ新宿のレーザーディスク屋のバイト仲間のバンドマン斎藤健介君が大好きでかけてましたが、「日本語でモッズっぽいことやってる人がいるんだなー」くらいの認識でしたね。
それで、その年の4月の終わりぐらいなんですけどね、下北沢に通いだす前に元々ブッキングしてもらってたJERRY JEFF(中編でも登場したロック・カフェ。西寺がサークルで組んでいたバンド、SLIP SLIDEのラスト・ライヴのポスターを貼ってもらっていた)で弾き語りをしたんですよ。
僕は今でもギターはたいして上手くないんですけど、そのころは更にド下手で(笑)、誰も一緒にバンドやってくれないからしょうがない、何もしないよりはと弾き語りをしようと思ったんですけどで、演奏を始めた瞬間にね、「終わってんな、オレ」と思ったんですよ(笑)。
はぁ。
ド下手やし、自分のやりたい音楽って、まあ、ノーナでやってきた音楽を聴いてもらえばわかるように、弾き語りとは似ても似つかぬソウルとファンクとAORとロックと歌謡曲と混ざり合ったみたいな……、ま、言ってみれば様々な楽器やハーモニーが絡み合うグルーヴィーな音楽なんですよね。
ギターでの弾き語りはしょうがないからやってたんですけど、ともかくショボかったですし、もし自分が仮にめちゃくちゃアコギが上手くなったとしても理想とは違うんですよ(笑)。
このままではプロとして音楽を続けていくのはどんなポジティブ思考の俺でも無理やと思って、はじめて完全に絶望しましたね(笑)。
で、まず「バイトをやめよう」と思ったんです。
せっかくMacの扱いも覚えさせてもらったんだけど、ともかく時間が無さすぎると。学校は最後の4年生。
バイトしながら、大学も卒業して、その上でプロになろうと思うのは無理やと……。
1.2年生サボりまくってたから授業もめちゃくちゃ出て、ようやく卒業できるってほんとギリギリで。
当時学費が確か70万か80万したんですよね。
なので、、まず親父に電話して「オレ、バイトやめるわ。ついてはあと2年。23歳になるまで仕送りしてほしいんやけど、そこまではミュージシャンなるためにがんばるし、絶対に卒業するから一年浪人して一年留年したと思って、23歳のギリギリまでオレに投資し続けてくれへんか」と。
で、イチローが僕と同い年でめっちゃ有名だったんで
「(イチローの父親)チチローがイチローにどんだけ投資したと思ってんねん。
23歳を一日でも過ぎて24歳になったらもう絶対にプロになるのあきらめるから、それまではちょっとオレに賭けてくれや」
って熱く話したら、「いいよぉ」って、あっさり(笑)。
さすがです、チチ寺さん(笑)。
「ええんや!」みたいになって(笑)。
で、バイト先の棚倉さん、僕にMacを教えてくれ、色々チャンスをくれた恩人に電話をしまして。
ようやく仕事の仕方を覚えてきてこれからやっていう時だったし、社長からもどこまでシリアスだったかわからなかったとは言え、遅刻して、トイレばっかり行ってる僕を就職まで誘ってくれた最高のムードの会社だったんで心が痛むところではあったんですけど。
「僕、ミュージシャンになりたいって言ってましたけど、バイトを続けながらでは僕の実力では無理です。
でも、ミュージシャンになることはどうしてもあきらめられないんです。
全精力注ぎたいんです」と。
で、給料の締めもあるし、「小間使いとかここまでは頼むわってところまではお手伝いしますんで、そのタイミングでバイトを辞めさせてください」って言ったら、棚倉さんが「わかった。じゃあ、今日で辞めろ」って。
「その代わり、オマエ言うたからにはがんばれよ!」って言われて。
ありがたい言葉ですね。
で、給料が10日か15日分ぐらいあったので、それをまあ後日受け取りに行かなきゃいけなかったんですけど、辞めてから給料日まで10日間ぐらいのあいだ、ゴールデンウィークの間、僕、結局何もしてなかったんですよ。
なんか、ぼぉーっとしてもうてですね。
ミュージシャンになります!って偉そうに言ってバイトを辞めさせてもらったのに、これでは最低や。
あかんなあと思って、給料もらいにいく日の前々日ぐらいから焦り始めて。
まあ、「がんばってるか?」みたいなことは必ず訊かれるでしょうしね。
そう、それでなんとかせなあかんと思って作ったのが、「自由の小鳥」っていう曲やったんですよ。
それがノーナ・リーヴスの曲として作った1曲目で、そのまんま、カセットMTRで作ったデモ・ヴァージョンでファースト・アルバムの『サイドカー』にも入ることになるんです。
で、その一人で作ったデモをポータブルのDATにダビングして、給料をもらいにいった時に棚倉さんにヘッドフォンで聴かせたんです。
そしたら「なんだこれ!!これ、めっちゃイイじゃん! いままで聴かせてもらった郷太のとぜんぜん違うぞ」って。
やりました!
ホント、ヤッターッと思って、次の日の早朝、当時、早稲田駅そばのファミリーマート夏目坂店でバイトしてた小松にドラムを頼もうと思って、誘いにいったんですよ。
あいつがバイトの終わりかけにずっと立ち読みしてるヘンなやつがいる、めんどくさいなって思ったら郷太だった、っていうのは小松もよく話すエピソードなんですけど(笑)。
はい、聞いたことあるような。
で、バイトが終わってから24時間やってる早稲田通り沿いのマクドナルドに行って。
小松はね、売れっ子ドラマーだったんですよ。
当時から。
大学のサークルでも、先輩や仲間に頼まれて、それこそジャンルバラバラにいろんなバンド掛け持ちしてたし、売れっ子といいながらアマチュアはリハやライヴのお金払うからバンドやればやるほど金がなくなるんですよね(笑)。
だから、それまでにも何度となく声をかけたりはしてたんだけど、忙しいし、金もないっていうことでずっと逃げられてたんですよ。
ただ、この頃になると小松が手伝ってたバンドも、周囲の就職の準備だなんだででどんどん無くなっていってて。
あいつはセッション・ミュージシャンになりたいって思ってたみたいなんですけど、彼なりに焦ってる時期だったみたいで。
そういう意味ではグッドタイミングでもあった。
そう。
それで小松に「どうしてもドラムをやってほしい、下北でライヴやりたいねん、めっちゃ客が集まるねん、やばいねん、とんでもないムーブメントやねん、ドラムが決まらへんかったら何も始まらへんから!」って迫りながら(笑)、棚倉さんに褒められた「自由の小鳥」を聴かせんです。
そしたら、「おい、郷太。これめっちゃイイぞ!」ってなって、ふたつ返事で「俺、ドラムやるよ」って言ってくれたんですよ。
ここで一歩前進、ですね。
まずはドラマーでしたから。
俺自身もドラムずっとやってたんで、ほんとドラムだけは絶対に譲れなくて。
前にサークルで組んでいたバンドが絶望の中で終わって、最後のポスターから繋がった秋葉原でバイトを始め、湧井さんと出会い、下北沢のバンド・シーンと繋がり、そこからNONA REEVESがひとりでスタートして、小松が叩いてくれることになってっていう、これが95年の1月から5月のあいだにあった出来事なんですよね。
ものすごく目まぐるしい変化で。
で、小松が「郷太はアイディア、メロディ、コンセプトはいいけど、それだけじゃなくて、奥田のコード感とかアレンジが絶対必要だ!奥田を誘おう」と言い出して。
駄目元で誘ったら奥田も「このバンドなら、俺がやるべきことがいっぱいある」みたいなこと言って加入して、って感じで、彼が入った1996年にはQUEが満員になるようなバンドになっていると。
目まぐるしいし、濃いですね。
これらすべての出来事が、ここ新宿駅と、新宿から一本で繋がっている駅──高田馬場、秋葉原、下北沢で起きたという。
この流れの先に、96年のプリンス〈ゴールド・ツアー〉をめっちゃイイ席で観たっていう前編で触れた話があって……あっ、その前にですね、95年の終わりぐらいだったかな。
その頃、新宿のタワーレコードって東口のすぐそばにあったんですけど、ふらっと立ち寄ったら、サニーデイ・サービスのシングル「恋におちたら」が面出しで並んでて。
で、試聴機で聴いてみたら、ホント、膝から崩れ落ちるかっていうぐらい感動したんですよね。
これはヤバい、曽我部恵一さんは天才だ!……と思ってめちゃくちゃ感動させられたんですけど、それも新宿駅の思い出ですね。
それからしばらくは意図的にサニーデイを聴きませんでした。
聴いてたら、めっちゃ影響されてまうと思って。
ということで、3回に渡って西寺駅長の〈自身語り〉をお送りしたところで、次回は……新宿編のなかでも名前が登場したプリンスのお話。
著書「プリンス論」を書かれている駅長だけに、プリンスについてはどこからでも、いくらでもお話できるお題はあるようですが、さて、どのプリンスを語っていただきましょうか?
待て、次回!
写真:杉江拓哉( TRON) 取材・文:久保田 泰平
編集・構成 MOC(モック)編集部
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