自然の理法に逆らうことがなく、天地自然と一体をもって行う合気道。
故・塩田剛三先生が設立した「養神館合気道」は海外を含め200を超える道場を展開。
そんな武道の世界に、養神館合気道薫友会支部長の喜多山 司師範が足を踏み入れたのは、不惑を目前にした会社員時代だったそう。
子供と肩を並べて決心した入門エピソードを交えながら、養神館合気道の魅力を伺いました。
喜多山先生は、なぜ合気道を始めようと思われたのですか?
私は会社勤めをしていたのですが、当時仕事が忙しくて気がついたら40歳目前でした。
体力的にも気力的にも若干衰えを感じ出して来ました。
また、年齢的にも周囲のいろんな事が見えてきた頃で「このままではいけない」「何かを変えなきゃ」と、自分を変えたいという思いが身体の中から突き上げてくるような時期でした。
そんな頃、小学生だった息子と一緒に江戸川総合体育館に遊びに行ったら、合気道の会員募集ポスターが貼ってあったんですが、それが「あなたは健康に自信がありますか?」ってポスターなんです。
およそ武道とはかけ離れたなれた文言に惹かれたんですかね(笑)
剣道や空手いろんなポスターがあったのですが、その合気道がどうにも気になって電話をかけてしまいました。
当時は、合気道にどんなイメージをお持ちだったのですか?
ここだけの話、ちょっと嘘っぽくて軟弱だと思っていました(笑)
学生時代は武道の盛んな大学でしたので、体育の授業では柔道・剣道・空手が必須科目だったりで、身近に武道を見てきましたが、合気道は全く意識していませんでした。
勿論、その存在は知っていましたが、現在こんな形で合気道に関わるとは夢にも思っていませんでした(笑)
また、塩田剛三先生が大学の先輩にあたることを知ったのも薫友会入会後というなんとも無知な状態でした。
塩田剛三先生も似たような体験をされてますね。
—–加来耕三著「戦後合気道群雄伝―世界の合気道を創った男たち」より———
18歳の頃、塩田の父親から相談を受けた府立六中校長の誘いで、植芝盛平が営む植芝道場を見学に訪問。
その時期の塩田は武道の腕前を上げ慢心を見せ始めており、植芝と門下生の稽古も内心「インチキじゃないか」と思いながら眺めていたという。
そこへ植芝自ら塩田に「そこの方、やりませんか」と声をかけ、1対1の稽古をしないかと誘ってきた。
塩田はその申し出を受けて事実上の立ち会いに臨み、植芝へいきなり前蹴りを放った。
すると一瞬で壁まで投げ飛ばされ、驚嘆した塩田は即日入門を決意。
植芝の門下生となった。
塩田は晩年に受けたインタビューの中で、この植芝との立ち会いのことを「投げられた時に頭をしたたかに打ちましてね。
私より小さなお爺さんに何をされたのかも分からず、閉口してしまったわけです。
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何も知らないと嘘くさく見えちゃうじゃないですか(笑)。
その後、当時 養神館での支部第一号の澤村支部長(薫友会合気道連盟会長)と出会ったわけです。
澤村師範は、おっかない顔をしていました(笑)
お会いした時の師のたたずまいや、稽古が私の思っていた合気道と全く違っていました。
それで息子共々その場で「やりたいです」と答え、即日入門ということになったのです。
先代の澤村師範とは、どんな方だったのですか?
武張った人でしたね(笑)
在学当時は、海軍予備学生として入隊していました。
武術においては合気道八段で古流剣術と杖道を学んでいました。
練習の時に目の上を痛めて抑えていると、「どうした!目玉でも取れたか」なんて言われたり…。
目玉が取れては大変ですが、あまり物事に動じない方でした(笑)。
新しいメンバーの方々はなかなか近寄り難かったのではないでしょうか。
でも澤村先生は、稽古では厳しいのですが実は意外と優しい方なんです。
当時の薫友会は個人タクシーの運転手で構成されていました。
会社員は私だけ。皆さんからは三日で辞める。
もってせいぜい三か月と言われていたそうです。
でも楽しかったです。
きつかったけど(笑)当初、腹筋100回やってブチっと音がして肉離れで動けなくなったこともありました。
準備運動だけでクタクタになったりしましたね。
武道の練習とはいえ、かなりハードだったのですね!
入門当時70歳くらいの先輩が「受け身はなっ、畳の上だけでやってもダメなんだ!見てろ、コンクリートの上でやってやる」って言われて・・・。
周りのみんなは「やめ、やめ」って笑いながら止めていましたが、「見たか!」ってやってましたね。
ちょっと痛そうでしたけど。
受け身をする場所はあまり頓着しませんでしたね。
後年、息子と私は護身講習会など会議室で澤村先生の受けをとるのですが、床マットの下はモルタルになっているのですから大変です。
杖道合宿時の来賓演武では、剣道場(板の間)でやります。
「今日は柔らかくて良かった」などと息子や先輩と話していたことを思い出します。
小手返しなどバンバンやりますから、痛くてはたまらない。
息子と二人、飛んでも痛くない受けをやるようになりました(笑)
特に受け身の稽古時間があるわけではなく、先輩を見てああなりたい、こうなりたいって思う、真似る…それだけですね。それが普通でした(笑)
子供と一緒に始めた合気道ですが、子供がいるから頑張れたというのはあります。
だらしないところ見せたくない、情けない姿を見せられない。
頑張らなくちゃってね。
子供の方が先に出来て悔しい思いは何度もしました(笑)
子供はどうやるかなんて、頭で考えないのです。
だから吸収が早い。
現在では、日本ばかりではなく海外にも広く浸透し、諸外国で異常なブームにまでなった合気道。
そこで出会った先達の軌跡を必死に追いかけてきたから、喜多山 司氏の今がある。
着実に誠実に昇ってきたなかで、喜多山師範が得たものは――。
次回インタビューでは、武道でありながら争いをしない合気道について、喜多山氏がその道を進み続ける意図を探ります。
写真:杉江拓哉 TRON
編集・構成 MOC(モック)編集部
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